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大人の事情

退職届は三通あるのに、院長はいつも「助かるよ」と言う

仕事約 4 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

受付カウンターで院長が無地の紙袋を差し出し、女性事務員が笑みを浮かべて鞄に手を添えている。

この話は

駅前の歯科医院で受付をする33歳の女性が、退職届を三通書いたまま、7か月も鞄に入れている。書式は完璧なのに、院長の机までの十歩が歩けないのはなぜか。

宮田真帆は33歳で、駅前のさくら通り歯科の受付に立っている。

足元の鞄には、退職届が三通入っている。
どれも出していない。

朝8時40分。院長の外山清がドアを開けた。

「おはよう。ありがとう、助かるよ」

まだ何も頼まれていない。真帆は予約表を机に出しただけだ。

外山はいつもこうだ。
宅配の人にも、同じ声で言う。

白衣のポケットから飴を出して、カウンターに置いた。

外山は、診察台の横の引き出しに何でも入れる。
飴の袋。領収書。患者さんから預かった紙。

全部、同じ引き出しだ。

一度だけ、真帆は聞いたことがある。
「そこ、整理しましょうか」

外山は「ありがとう、助かるよ」と言った。
引き出しは、そのままだった。

鞄の中の三通を、真帆は見なくても言える。

一通目は4月。手書きで、二重封筒にした。
書いてから、二重は不幸が重なる形だと知った。出さなくてよかった。

二通目は7月。今度は印刷した。
宛名の肩書きが古かった。古い名刺を見て打っていた。

三通目は今月。
直すところは、もうない。

ただ、日付の欄だけが白い。

日付は出す日に書く。真帆はそう決めている。


出さない理由なら、いくらでも言える。

月が替わると、レセプトの締めが来る。
来月からは予約システムも替わる。入力は真帆の担当だ。

昼になると、外山は差し入れをくれる。
今日は駅前のパン屋の袋だった。

「宮田さん、これ。みんなで食べて」

「ありがとうございます」

「いや、ありがとうはこっちだよ。助かるよ」

こういう人に、突然言うのは失礼だ。
真帆はそう思っている。

就業規則のコピーは、財布の中にある。
「退職は一か月前までに届け出ること」

今日出せば、退職日は11月末になる。
計算は、もう済んでいる。

休憩室で、真帆は口の中で練習した。
「少しお時間よろしいでしょうか」

ここで止まる。
これで四回目だ。

便箋はあと2枚。封筒は白の長形四号が、あと5枚。
足りなくなったら買えばいい。書き直す手間は惜しくない。

失礼のないように。
封筒の角を、指でそっと揃える。

それに、自分が辞めると言えば、院長は困る。
困る人に、準備なしで言ってはいけない。

出していないのだから、辞めるとは一度も言っていない。
書いただけだ。鞄に入れただけだ。

毎日、受付にはきちんと立っている。
誰も損をしていない。


昼休み、歯科衛生士の小野寺凛が向かいに座った。
入って二年目の23歳だ。

手には、コンビニのおにぎりが二つ。

「宮田さん、レセプトの下準備って、わたしにも教えてもらえますか」

「いいけど。どうして急に」

「受付も手伝える人になりたくて。宮田さんの机、いつも段取りがきれいなので」

真帆は、お茶を一口飲んだ。

「そういえばですけど」

小野寺は、おにぎりの袋を開けながら言った。

「去年辞めた前の受付の人、覚えてます? わたし、入ったばかりで」

「少しだけ」

「金曜の夕方に、封筒を出したんです。院長、その場で一回見て」

小野寺は、院長の声をまねた。

「『わかりました、ありがとう』って。それで、あの引き出しに入れたんです」

真帆は、箸を止めた。

「あの引き出し」

「はい。次の週には、もう求人が出てました」

「……理由は聞かれなかったの」

「聞かれてないと思います。あっさりで、ちょっと寂しかったです」

小野寺は、おにぎりを一口かじった。

「宮田さんは辞めないですよね。教わる前にいなくなるの、困るので」

「辞めないよ」

口が先に動いた。自分の声が、院長の「助かるよ」に似ていた。

真帆は、三通ぶんの場面を思い出した。
院長が顔を上げる。一度黙る。「えっ」と言う。

どの場面も、真帆が一人で練習したものだった。

困っている院長は、鞄の中にしかいなかった。


午後の診察は、いつもより長かった。

最後の患者さんが帰ったのは、5時40分。
真帆はカウンターの下で、三通目を取り出した。

ペンを持つ。
日付の欄に、今日の日付を書いた。

10月26日。月曜日。
退職日は、11月末。

書くのに、3秒かかった。

鞄の底には、一通目と二通目が残っている。
置いていくことにした。持ち帰る理由が、なかった。

診察室まで、十歩。
数えながら歩いた。

外山は診察台の横で、器具を拭いていた。

「少しお時間よろしいでしょうか」

五回目は、最後まで言えた。

「ああ、どうしたの」

真帆は、両手で封筒を差し出した。
宛名は上。向きも、揃えてある。

外山は封筒を受け取った。
表を見る。裏を見る。
一度だけだった。

「わかりました。ありがとう」

それだけだった。

理由は聞かれなかった。
「困る」とも言われなかった。

真帆は、何か言葉を探した。
練習していた台詞は、どれも使う場所がなかった。

外山は診察台の横の引き出しを開けた。
封筒を、飴の袋の隣に置いた。

引き出しが閉まる。
中で、飴の袋がかさりと鳴った。

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