この話は
建材問屋の営業事務、29歳の紗江は、月曜の朝だけ駅のベンチで電車を一本見送っている。辞めるとも続けるとも決めていない彼女は、その一本をいつまで一本で済ませられるのか。
わたしは谷口紗江、29歳。西浜建材商会という建材問屋で、営業事務をしている。
月曜の朝は改札を通ってからベンチに座る。会社へ行く電車を、一本見送るためだ。
7時42分。
ホームに電車が入ってくる。ドアが開く。席も空いている。
乗れる電車だ。わたしは乗らない。
定期入れを膝にのせたまま、発車のベルを聞く。ドアが閉まって、電車が行く。
辞めたいとは、一度も言っていない。
電車を一本見送っているだけだ。それを辞めたいと呼ぶのは、言葉が雑だと思う。
始業は9時。次の7時54分に乗れば、8時56分には席に着く。
遅刻はゼロ。誰にも迷惑をかけていない。誰も損をしていない。
隣のベンチの端に、缶コーヒーが置いてある。毎週同じ場所で、白い湯気が細く立っている。
誰のかは知らない。見る理由もない。
経理課の白石先輩は、月曜は9時ちょうどに席に着く。
わたしより4分遅い。その4分に、わたしはちょっと安心している。
ベンチでは、スマホを出す。転職アプリを開く。
「保存した求人 7件」
その下に、「下書き保存 1件」。履歴書だ。
今ので3版目になる。1版目は志望動機が長すぎた。2版目は短すぎた。
3版目は、ちょうどいいと思う。ちょうどいいから、まだ送れない。
応募ボタンは親指のすぐ下にある。押さない。
親指を浮かせたまま、画面が暗くなる。
気になる求人はひとつある。住宅設備の会社の事務で、休みは完全週休2日。
ただ、今より片道40分遠い。
往復で80分。月曜がますます遠くなるだけだ。そう思うと、親指がまた浮く。
「辞めてないんだから、いいでしょ」
誰に言うでもなく、口の中で言ってみる。
見送る12分は、家を出る時刻に先に足してある。目覚ましは、前より12分早い。
手間は惜しんでいない。こういうところが、わたしはまじめだと思う。
先月は8時52分に席に着いていた気がする。気がするだけだ。数には入れない。
自販機で温かい缶コーヒーを買う。両手で包むと、指先が少しあったまる。
隣のベンチの缶も、まだ湯気を立てている。
11月の月曜は、ホームの風がもう冷たい。
その朝、隣のベンチの人が立ち上がった。空き缶を捨てに、こっちのゴミ箱へ歩いてくる。
見覚えのあるコートだった。
「あ」
白石先輩だった。
先輩は缶を持ったまま、手首の時計を見た。それから、わたしを見た。
「谷口さんも、月曜?」
「……『も』って」
「わたしは、入社した年から」
11年。わたしは頭の中で数えた。数えたのは、これだけだ。
「最初は一本だったの」
「今は、違うんですか」
「二本の日が混ざるようになってね。9時8分に着く日」
月曜は9時ちょうど。そう思っていた。遅れて来た日のことは、わたしの中に残っていない。
「そういう日は、電車が遅れたことにするの」
「バレないんですか」
「誰も、聞かないから」
先輩はやわらかく笑った。叱る顔ではなかった。わたしは缶を握りなおした。
「乗ろうって、思いませんか。毎回」
「思うよ」
先輩はもう一度、時計を見た。
「まあ、次のも来るから」
先輩は自分のベンチに戻って座った。わたしも、自分のベンチに座っている。
ベンチ2つ分、間が空いている。
決めない人の11年後が、いま、そこに座っている。コートの襟が少しすり切れていた。
7時54分。
電車が入ってくる。ドアが開く。この電車なら、8時56分に着く。
腰が浮きかけた。
先輩のほうは見ないことにした。見たら、何かが決まってしまう気がした。
定期入れを握る。親指がスマホの画面を探す。応募ボタンは、押さない。
発車のベルが鳴る。
わたしは座っていた。
ドアが閉まって、電車が行く。
先輩は何も言わなかった。先輩も、座ったままだった。
次は8時6分。それに乗れば、席に着くのは9時8分になる。
課長はたぶん、朝礼で言う。「今週もよろしく」。わたしの席が空いていることは、気にしない人だ。
だから、遅れる理由は誰にも聞かれない。それでも、先に用意した。
「前の電車が、詰まってて」
小さく言ってみる。いい声が出た。先輩の声に、少し似ていた。
本当に詰まるかどうかは、まだ決まっていない。
辞めるとは言っていない。今日は二本見送っただけだ。



