この話は
食品卸の営業企画課で、40歳の係長が毎週の合同定例の議事録を書いている。劣勢の上司を勝たせるため、最後の5分で一語だけ直した彼は、勝ったあとに何を渡されるのか。
木曜の議事録係
「尾上さんの議事録は読みやすい」と、北陽フーズ流通の本社では評判だ。
尾上圭吾は40歳。営業企画課の係長で、毎週木曜の物流・営業合同定例の議事録係をしている。会議の最後の5分で清書して、全員に送る。
言葉はいつもきれいに整っている。
7階の会議室で、尾上の席は窓際だ。そこに座ると、両方の部長の顔が見える。
物流統括部長の福井は56歳。尾上を係長に引き上げた人だ。
営業統括部長の戸塚は54歳。役員の覚えがよく、戸塚案は通りやすい。
来春、流通推進室ができる。室長の椅子は1つだ。福井は劣勢だった。
木曜の午後4時。会議が終わる5分前に、尾上はノートパソコンの画面を切り替える。
後輩の水野まどかが打った下書きが開く。会議中の発言を、そのまま並べたメモだ。
尾上は誤字を拾い、主語を足して、語尾をそろえる。
決定事項の欄は、特に丁寧に書く。
誰も読み返さない欄だからだ。
「尾上さん、来年は文字起こしのソフトが入るらしいですよ」
「わたしたち、いらなくなりますかね」
「全部書くと、読みにくいだけだよ」
尾上は画面から目を上げずに答えた。水野は「ですよね」と笑った。
席を立った福井が、通りがけに尾上の肩へ手を置いた。
「今日も頼むよ。文面は任せるよ」
「はい」
4時12分に送信する。福井にも戸塚にも、同じ時刻で届く。
最後に4文字が入る。「文責:尾上」
尾上はこの欄が気に入っている。きれいな文章の下に、自分の名前が置かれるからだ。
どちらの派閥からも、尾上は公平な人と思われている。
本人も、そう思っていた。
福井部長の頼みごと
火曜の午後、尾上は福井に呼ばれた。
物流統括部の隅にある、小さな打ち合わせ席だ。湯のみが2つ置いてあった。
「来月、役員向けに議事録をまとめて出すだろう」
「あれは、まとめ方で印象が変わるからね」
「……はい」
「まあ、雑談だよ。文面は任せるよ」
福井は茶を一口飲んで、ゴルフの話を始めた。
命令はなかった。頼みごとと呼ぶほどのものも、なかった。
その週の木曜、定例の最後の5分。
尾上は窓際の席で、水野の下書きを開いた。物流側の提案の決定事項に「検討」とある。
会議で福井は、いい顔で頷いていた。戸塚も反対はしなかった。
尾上は「検討」の前に、3文字を足した。
「前向きに検討」
足したのは1語だけだ。嘘ではない。頷いた人はいた。
尾上には決まりがある。直すのは1回に3語まで。それ以上は、やり過ぎだ。
清書は4分。直した誤字は3件。送信は4時12分で、両派に同じ時刻。
翌朝、水野が画面をのぞき込んだ。
「あれ、ここ、わたしの下書きは『検討』でした」
「読みやすく整えた。意味は同じだよ」
「そっか。勉強になります」
昼は、同期の前田直人と駅裏のそば屋に行った。入社以来、週に3回は同じ席に座る。
「昨日の議事録、また評判よかったぞ」
「お前、書くの上手いよな」
「清書は4分。誤字は3件直した」
「数えてんのかよ」
前田が笑う。尾上も笑った。
誰にも気づかれなかった。尾上は帰りの電車で、送信済みの画面をもう一度開いた。
「持ち帰り」を「合意」に
次の木曜の定例は、関東第二倉庫の話から始まった。
夜間出荷を絞る案だ。戸塚が出した。
「数字は出ている。縮小する方向で考えたい」
物流の課長が手を挙げた。夜間班の人数と、シフトの話をする。
戸塚は最後まで聞いてから、よく通る声で言った。
「そこは持ち帰ろう」
戸塚の口癖だ。結論を先に言い、細かいところは持ち帰る。会議は予定より10分早く終わった。
席を立つ前に、福井が小さくつぶやいた。
「これが通れば、現場も締まるんだがな」
尾上に言ったのか、独り言なのか。尾上には分からなかった。
残り5分。水野の下書きが開く。
「夜間出荷の縮小は、戸塚部長が持ち帰り」
尾上の指が止まった。
「持ち帰り」を消す。打つ。
「夜間出荷の縮小は方向で合意」
直したのは1か所。3語以内だ。会議では、頷いた人が何人もいた。
水野が画面をのぞいた。
「ここ、原文のままでいいですか」
「流れを整えた」
「あ、はい」
水野はもう一度だけ首をかしげて、自分の席に戻った。
数日後、尾上は福井の使いで、関東第二倉庫の事務所に行った。
壁にシフト表が貼ってある。夜10時から朝6時。名前が8つ。
夜間班のリーダーの田所ミツ子が、缶コーヒーを差し出した。58歳。パートで、もう11年になるという。
「遠いところ、ごくろうさま」
「ありがとうございます」
「わたしね、今のシフトで助かってるの。昼は親の病院があるから」
尾上は「そうですか」と答えた。
缶コーヒーは甘かった。半分で、飲めなくなった。
残りを事務所の流しに捨てた。空き缶は、鞄に入れて持ち帰った。
前田が昼に来ない
議事録が配られた翌週、戸塚が口を開いた。
「夜間出荷の件だが、俺は持ち帰ると言ったはずだ」
会議室が静かになった。
福井は穏やかな顔で、手元の紙をめくった。
「議事録には、方向で合意とありますね」
「そこが違うと言っている」
物流の課長が、困った顔で言った。
「方向、という感じではありましたよね」
何人かが小さく頷いた。戸塚は、ほかに出せるものを探した。
録音はない。メモも、部下が取ったものは「検討」としか書いていなかった。
あるのは議事録だけだった。
「……言った言わないの話は、したくないが」
戸塚はそう言って、座った。もう言った後だった。
窓際で、尾上は何も書かなかった。5分前に書くことが、もう無かった。
昼になっても、前田は来なかった。
尾上は1人で、いつものそば屋の4人掛けに座った。水が2つ運ばれてきた。
前田に会ったのは夕方だった。自販機の前で、小銭を探していた。
「悪い、昼は戸塚さんに呼ばれてさ」
「うん」
「俺の聞き方が違ったのかな。持ち帰るって、聞こえた気がしたんだけど」
前田は笑った。笑う場所ではないところで、笑った。
「どっちにも同じ時刻に送ったよ」
尾上の声は、思ったより早く出た。
「だよな。お前、書くの上手いよな」
前田はコーヒーのボタンを押さずに、小銭をしまった。
次の日も、その次の日も、前田は昼に来なかった。
そば屋は、水を2つ運んでくる。
流通推進室の発表
役員会は、11月の第2週にあった。
尾上は出ていない。だが資料に付いた議事録は、尾上の版だった。
役員たちは珍しく、決定事項の欄を読んだ。誰も読み返さない欄を、初めて読んだ。
結果は、翌週の月曜に出た。
営業主導案は「進め方に不一致が多い」として、後ろに下がった。
流通推進室の室長は、福井に決まった。
福井は廊下で、尾上を呼び止めた。
「尾上くん、ありがとう。君の議事録のおかげだ」
軽い言い方だった。天気の礼を言うような声だった。
「いえ。整えただけです」
「ははは。それが一番むずかしい」
その日のうちに内示が出た。尾上は、流通推進室の係長になる。
総務から新しい名刺の見本が届いた。
「流通推進室 係長 尾上圭吾」
尾上は見本を指でなぞった。紙の端がきれいにそろっている。
その夜、尾上は駅前の立ち飲みに入った。
祝杯の相手はいない。前田にメッセージを打ちかけて、消した。
生ビールを1杯。のどが鳴る。うまい。
2口目で、口の中に甘さが戻ってきた。
あの缶コーヒーの味だった。
尾上は残りのビールを一気に飲んだ。今度は、飲み干せた。
室長の最初の宿題
4月1日。流通推進室の最初の会議は、小さい部屋で開かれた。
窓は無い。尾上の席は、福井のすぐ隣になった。
福井は新しい名札を直しながら、軽い声で言った。
「最初の仕事を決めたよ。関東第二倉庫の夜間出荷だ」
「あれは合意済みだったろう。決まったことは、決まったこととして前へ進めよう」
紙コップを持つ尾上の手に、力が入った。
「室長、あれは……少し、整えた部分がありまして」
福井は不思議そうな顔をした。
「整えたのが君の仕事だろう。いい文面だったよ」
それから、思い出したように付け足した。
「実行は、君に頼む。文面を書いた人が、一番よく分かっているから」
断る理由は、1つも見つからなかった。
福井は続けた。来期から、会議の自動文字起こしを試すという。
「全部残るらしい。便利な時代になるね」
「過去の分は、直さなくていい。尾上くんの版が正だ」
その日の午後、後任の議事録係になった水野が、ファイルを持ってきた。
「尾上さんの議事録、手本にしてます。読みやすいので」
「……そうか」
「あ、この夜間出荷の件、面談票の経緯の欄に写してもいいですか。原文のままで」
尾上はファイルの最後のページを見た。
「文責:尾上」
書いてから半年。尾上は、その4文字を初めて読み返した。
夜間班との面談
5月の第2木曜。尾上は関東第二倉庫の事務所にいた。
夜間班の面談は、1人20分。8人分を、夜の勤務前に続けて行う。
机の上に、面談票が8枚並んでいる。
「経緯」の欄には、同じ一文を写した。
「夜間出荷の縮小は、合同定例にて方向で合意」
1人目は、黙って聞いた。2人目は、時間短縮で減る分を電卓で計算した。
「前から決まってたんですか」
「会議で、合意をいただいています」
尾上の声は、よく整っていた。3人目からは、言い方が同じになった。
事務所の外に、自販機が1台ある。夕方の光で、缶の見本が光っていた。
8人目が、田所だった。
田所は椅子に座ると、面談票を自分で読んだ。時間をかけて、最後まで読んだ。
「決まったことなら、しょうがないね」
田所は、やわらかく笑った。
「ただ、理由は知っておきたいの」
「前から決まってた話なの」
尾上は面談票を見た。
経緯の欄に、自分の字が並んでいる。会議の最後の5分で書いた、あの一行だ。
田所の手元には、いつの間にか缶コーヒーがあった。自販機で買ってきたらしい。
尾上は口を開いた。
「方向で」
そこで、声が止まった。
田所は缶コーヒーを、尾上のほうに押した。



