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大人の事情

紹介した友人の提案書と、三本目の赤ペン

仕事約 6 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

社内報を手にした女性の肩越しに、隣の島から同僚が身を乗り出す。奥で友人が書類を抱えて立つ。

この話は

半年前に友人を自分の課へ紹介した34歳の主任は、毎晩その友人の提案書に赤を入れて返している。友人はいつも礼しか言わない。その赤は、本当は誰のためのものなのか。

目次(5 章)
  1. 1千春の資料に赤を入れる
  2. 2社内報に千春が載る
  3. 3課長に様子を聞かれる
  4. 4評価シートを渡される
  5. 5夜十一時に資料が届く

千春の資料に赤を入れる

亜季の引き出しには、赤ペンが三本ある。千春が入社して半年で、二本目が切れた。

桐山亜季は34歳。港南アドサービスの営業企画課の主任だ。半年前、学生時代からの友人・小柳千春をこの課に紹介した。今夜も11時までに、千春の提案書へ赤を返すつもりでいる。

夜9時40分。自宅のテーブルで、千春の提案書を印刷する。

12ページある。客先は文房具の問屋で、中身は店頭に置くポップの提案だ。

赤ペンを持つ。1ページ目の1行目に線を引いた。

千春の文は「お客様の毎日に寄り添います」。亜季はそれを「お客様の日々に寄り添います」に直した。

次は「ご確認ください」。線を引いて、横に「ご確認いただけますと幸いです」と書く。

誤字は2つだけだった。あとは全部、言い回しだ。

半年前は、誤字のほうが多かった。

12ページ目の最後の1箇所を書き終えたところで、二本目のインクが切れた。

ちょうどだ、と亜季は思った。引き出しにはまだ三本目がある。

手帳を開いて、今日の欄に「23」と書く。赤を入れた箇所の数だ。

先週の火曜は14だった。

亜季は千春を悪く言ったことが一度もない。

課長に聞かれても「まだ慣れていないだけです」としか言わない。赤も誤字のついでに言い回しを整えているだけだ。

22時52分。12ページ分を写真に撮って送った。

返事は3分で来た。

「ありがとうございます、直します」

千春はいつもこれだ。「直しすぎです」と言われたことは、半年で一度もない。

亜季はそれを、感謝されている印だと思っている。

先月は、紹介手当の振込通知も届いた。亜季は開いて、すぐ閉じた。

社内報に千春が載る

月曜の朝、営業企画課のフロアに社内報が配られた。

3ページ目に「新メンバー紹介」の欄がある。千春の顔写真が載っていた。

その下に、一行。

「入社のきっかけは友人の桐山さん」

亜季はその一行を、2回読んだ。自分の名前が社内報に載るのは、これが初めてだった。

「見た? 亜季の名前、出てるよ」

隣の島から、同期の野口久美が顔を出した。

「やだ、恥ずかしい」

亜季は笑って、社内報を裏返した。裏返してから、また表に戻した。

野口が千春の席を見る。

「千春ちゃん、今日も早いね」

千春は7時50分から、もう画面に向かっていた。目の下に、うすくくまが出ている。

「頑張ってるよね、あの子」

亜季はそう言った。声は明るかった。

柴田課長が朝礼で、社内報を持ち上げた。

「小柳さんの紹介、いいよね。桐山さん、いい紹介だったよ」

「いえいえ。たまたまです」

拍手が少しだけ起きた。亜季は頭を下げて、笑ったまま席に戻った。

10時に、客先から電話が入った。

「小柳さんをお願いします。新店の件で、小柳さんに」

今月に入って、名指しは3件目だ。

昼になった。

千春は席でおにぎりを食べていた。前は「亜季さん、お昼行きます?」と必ず声をかけてきたのに。

「最近、千春ちゃんと食べてないね」

定食の列で、野口が言った。

「忙しいんでしょ。私も夜、あの子の資料見てるし」

野口は「ふうん」と言って、味噌汁を取った。

その夜の赤は、31箇所になった。

語順を入れ替えた。「ぜひ一度、お店で試してみてください」は「お試しくださいませ」に変えた。トーンが軽い、と余白に書いた。

今日は少し多いかな、と思った。

でも、社内報に載った子だ。恥はかかせられない。

22時57分に送った。返事は1分で来た。

「ありがとうございます、直します」

課長に様子を聞かれる

水曜の夕方、亜季は課長に呼ばれた。

打ち合わせスペースの丸いテーブルに、課長は紙コップを2つ置いていた。

「小柳さん、どう。ちょっと疲れて見えるけど」

「まだ慣れていないだけです。私が見ています」

亜季は即答した。言い慣れた言い方だった。

「そうか。頼りになるな」

課長は笑って、紙コップを持ち上げた。

「来週から評価面談だからね。育成がちゃんと回ってるところを、上に見せたいんだ」

「はい。任せてください」

席に戻ると、千春が待っていた。手に、明日客先に出す提案書の紙を持っている。

「亜季さん。今回の分、そのまま出していいですか」

千春がそう聞いたのは、半年で初めてだった。

亜季は一拍、紙を見た。

「お客さんに失礼かもしれないから。夜、見るよ」

千春は何か言いかけて、口を閉じた。

「……ありがとうございます」

紙を持って席に戻る背中は、いつもより小さく見えた。亜季はそれを、疲れているのだろうと思った。

夜、亜季は手帳を開いた。送信時刻の並びを指でなぞる。

千春の資料は、毎晩11時までに必ず返している。お客さんの前に出る前の、最後の目だ。手間は惜しんでいない。

それに、他の人の資料には赤を入れない。

友達だから、厳しく言えるのだ。言えるのは自分だけ。誰も損をしていない。

今夜は、28箇所だった。

22時58分に送る。返事は、いつもの1分だった。

「ありがとうございます、直します」

評価シートを渡される

木曜の昼過ぎ、課長が小さな会議室に亜季を呼んだ。

手に、A4の紙が1枚ある。

「明日が小柳さんの面談でね。先に、桐山さんにも見てもらおうと思って」

千春の自己評価シートだった。紹介者コメントの欄の隣に、千春の文が印字されている。

亜季は声に出さずに読んだ。

「毎晩11時に桐山さんの赤が届きます。厳しいですが、一番勉強になっていて、感謝しています」

もう一度、読んだ。

「厳しいですが」の所で、目が止まった。

「いい文だろう」

課長は椅子にもたれて、満足そうに言った。

「毎晩だよ。毎晩。愛だな」

亜季は笑おうとした。口の端だけが上がった。

「それでね。リーダー補佐の推薦欄に、小柳さんを書く。指導役として、桐山さんの名前も並べるよ」

「私の……名前もですか」

「育成が回ってる形になるだろう。部長にも言いやすい。助かるよ」

課長は穏やかに笑っている。褒め言葉の中に、頼みごとが入っていた。

「あの、あれは親切で……」

そこで、亜季は口を閉じた。

「うん?」

親切で、何なのか。続きを言えば、赤の理由を話すことになる。

いつ、どの赤を、どんな気持ちで入れたか。数を書いた手帳は、鞄に入っている。

「……いえ。ありがとうございます」

千春と同じ言い方をしていると、口に出してから気づいた。

課長はシートを受け取って、クリアファイルにしまった。

「じゃあ、明日の面談は私に任せて。いい紹介だったよ、本当に」

席に戻ると、野口が小声で聞いた。

「顔、白いよ。どうしたの」

「うれしいことがあっただけ」

亜季はそう答えて、紙コップの水を飲み干した。

夜十一時に資料が届く

夜9時30分。千春からファイルが届いた。

件名は「提案書_最終 お願いします」。明日の面談の前に見てほしいという。最終版だけは、紙でなくデータで来た。

亜季はテーブルでパソコンを開いた。

共有フォルダの資料に、コメントを付ける枠がある。三本目の赤ペンは、まだ引き出しの箱の中だ。

1ページ目の題は「店頭で足を止めてもらうために」。

千春の文だ。亜季は読み始める前から、どこに線を引くか分かっていた。

2行目の「ご提案します」。いつもここから始める。

カーソルを、その位置に置いた。

画面の端に、明日の予定が出ている。金曜10時。評価面談、小柳。

その下に、もう1行。推薦欄、桐山(指導役)。

時計は22時31分。11時まで、あと29分ある。

カーソルが点滅する。

やめたら、あれは意地悪だったことになる。

続けたら、あれは指導だったことになる。