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大人の事情

提案実績を検索したら、47件すべて作成者だった

仕事約 5 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

午後の事務所で、役員に褒められた課長が照れ笑いする横、自席の女性が点検資料の紙の角を静かに揃えている。

この話は

営業企画課の議事録を毎週書いている34歳の事務職が、社内公募に応募しようとしている。提案実績を調べられたとき、議事録に彼女の名前は何件見つかるのか。

長谷部澄香は、設備保守会社の営業企画課で毎週の議事録を書いている。「読めば会議に出た気になる」と評判だ。

その議事録に、澄香の発言は一行も載っていない。

「点検報告を、写真つきで1枚にまとめたいんです。お客さんごとに、前回との違いが見えるように」

木曜の定例会議の終わり際。澄香は自分の席からそう言った。

会議室が少し静かになった。

「いいね、それ。やろう」

柳田課長がペンで机を軽く叩いた。それで決まった。

澄香はノートの端に鉛筆で書いた。
提案者:長谷部。

席に戻ると、議事録の入力画面を開く。

決定事項の欄に「点検報告の見える化」と打った。提案者の欄で、指が止まる。

止まったのは3秒くらいだ。

課長が「やろう」とまとめた。議事録は、決まった言葉の持ち主を書くものだ。だから課長でいい。

澄香は「柳田課長より提案」と打った。

鉛筆のメモは、清書のときに消しゴムで消した。

16時50分に回覧する。決まりの17時には10分早い。

「いい議事録だね。助かるよ」

課長は画面を読みながら、気持ちよさそうにうなずいた。

隣の席の後藤が、同じ画面を見ている。
首をかしげた。

「あれ、これって確か……」

後藤はそこで口を閉じた。澄香は気づかないふりで、マウスを動かした。

議事録の下の方には、小さな字で自動の欄がある。
作成者:長谷部。

そこだけは、いつも澄香の名前が入る。


3日後、役員が廊下で課長に声をかけた。

「あの点検報告の案、いいな。現場からも評判がいい」

「いえいえ。チームで考えたことですので」

課長は頭をかいて、照れた。嘘は言っていない。
「チーム」と言っただけだ。

澄香は給湯室の前で、それを聞いていた。
紙コップを持ったまま、少し笑った。

半月後。課の朝礼で、課長が言った。

「前に私が言ったとおり、見える化は大事なんですよ」

課長は本気で言っている。

何度も議事録を読み返すうちに、そう覚えてしまったのだ。

澄香は朝礼のメモを打ちながら、指を止めなかった。

17時までに出すのが決まりだ。名前を入れ直せば、出席者全員に再確認が回って遅れる。
これは波風を立てないための、短縮だ。

それに他の人の案も、ずっと「課としての案」で課長名にまとめてきた。
自分の案だけ名前を出すのは、不公平だ。

言い訳は3つになった。
どれも形が違うので、3つ並ぶと理由らしく見えた。

その週、社内の掲示板に紙が貼られた。
社内公募「新サービス推進チーム」。応募条件の3行目に、こうある。

提案実績のある方。

澄香は、紙の端を指でそっと押さえた。画びょうは、きちんと刺さっていた。

「長谷部さん、応募するんですか」

後藤が横に立っていた。

「あのう、見える化のやつ、あれ確か長谷部さんの……」

「議事録は読みやすさが先だから」

澄香は先に笑った。後藤の話を、最後まで聞かなかった。

「あ、はい。そうですよね」

後藤は素直にうなずいた。
素直な人は、こういうとき助かる。


応募書類は、人事課の窓口カウンターに出す。

澄香は応募用紙を持っていった。提案実績の欄は、鉛筆で薄く「点検報告の見える化」と書いてある。

担当は戸川実という、明るい声の若い人だった。

「お預かりします。提案実績は、わたしの方でも確認しますね」

「あ、はい。お願いします」

「システムで検索すれば、だいたい出ますので」

戸川はパソコンに向かって、議事録システムを開いた。

発言者の欄に、「長谷部澄香」と打つ。
期間は、直近1年。

澄香は、カウンター越しに画面を見ていた。
見える向きだった。

結果が出る。

作成者:47件。
発言者:0件。

戸川の手が止まった。

「あ、全部、作成者ですね」

戸川はもう一度、スクロールした。
何も変わらない。

「提案は……ないですか?」

悪気のない声だった。
悪気がないので、逃げ場もなかった。

澄香は口を開けた。
言い訳を探した。

1つ目は、課長が決めたから。
2つ目は、17時までだから。
3つ目は、不公平だから。

どれも本当に言っていた。
どれもこの画面の前では、ひとつも口に出せなかった。

「締切は来週金曜の17時です。それまでに、実績が確認できる形にしてくださいね」

「……はい」

澄香は応募用紙を、自分の方へ引き取った。

鉛筆で薄く書いた字が、急に濃く見えた。


締切の前の夜。営業企画課には、澄香しか残っていない。

議事録システムに「訂正願い」というボタンがある。
この1週間、カーソルを合わせては離した。まだ一度も押していない。

発言者欄を、柳田から長谷部に直す。
それだけのことだ。

ところが、訂正は1件ずつ出す。
出席者全員の確認印がいる。1件に半日かかる。

間に合うのは、3件だった。

47件の議事録のうち、澄香の案が載っているものは44件あった。
3件を直しても、残りの41件は課長の名前のままになる。

澄香は3件を選んだ。
見える化の案が、その1番目だ。

翌朝、課長の席へ行った。

「課長、この3件の訂正に、確認印をいただけますか」

課長は画面を見た。
発言者欄の「柳田」と「長谷部」を、2回見比べた。

「ああ、あれは君だったか」

本気で驚いていた。
驚きすぎて、ちょっと感心した顔をしていた。

「いい議事録だね。助かるよ」

課長は気持ちよく印を押す。

席に戻って、訂正願いの最後の欄を開く。
訂正理由。必須入力。

入力カーソルが点滅している。

澄香は「提案者は私です」と打った。
7文字。画面にそのまま並んだ。

隣で、後藤がキーボードを叩く音がしている。

澄香はその7文字を消した。

理由欄に「表記ゆれ」と打って、送信を押した。