この話は
営業企画課の議事録を毎週書いている34歳の事務職が、社内公募に応募しようとしている。提案実績を調べられたとき、議事録に彼女の名前は何件見つかるのか。
長谷部澄香は、設備保守会社の営業企画課で毎週の議事録を書いている。「読めば会議に出た気になる」と評判だ。
その議事録に、澄香の発言は一行も載っていない。
「点検報告を、写真つきで1枚にまとめたいんです。お客さんごとに、前回との違いが見えるように」
木曜の定例会議の終わり際。澄香は自分の席からそう言った。
会議室が少し静かになった。
「いいね、それ。やろう」
柳田課長がペンで机を軽く叩いた。それで決まった。
澄香はノートの端に鉛筆で書いた。
提案者:長谷部。
席に戻ると、議事録の入力画面を開く。
決定事項の欄に「点検報告の見える化」と打った。提案者の欄で、指が止まる。
止まったのは3秒くらいだ。
課長が「やろう」とまとめた。議事録は、決まった言葉の持ち主を書くものだ。だから課長でいい。
澄香は「柳田課長より提案」と打った。
鉛筆のメモは、清書のときに消しゴムで消した。
16時50分に回覧する。決まりの17時には10分早い。
「いい議事録だね。助かるよ」
課長は画面を読みながら、気持ちよさそうにうなずいた。
隣の席の後藤が、同じ画面を見ている。
首をかしげた。
「あれ、これって確か……」
後藤はそこで口を閉じた。澄香は気づかないふりで、マウスを動かした。
議事録の下の方には、小さな字で自動の欄がある。
作成者:長谷部。
そこだけは、いつも澄香の名前が入る。
3日後、役員が廊下で課長に声をかけた。
「あの点検報告の案、いいな。現場からも評判がいい」
「いえいえ。チームで考えたことですので」
課長は頭をかいて、照れた。嘘は言っていない。
「チーム」と言っただけだ。
澄香は給湯室の前で、それを聞いていた。
紙コップを持ったまま、少し笑った。
半月後。課の朝礼で、課長が言った。
「前に私が言ったとおり、見える化は大事なんですよ」
課長は本気で言っている。
何度も議事録を読み返すうちに、そう覚えてしまったのだ。
澄香は朝礼のメモを打ちながら、指を止めなかった。
17時までに出すのが決まりだ。名前を入れ直せば、出席者全員に再確認が回って遅れる。
これは波風を立てないための、短縮だ。
それに他の人の案も、ずっと「課としての案」で課長名にまとめてきた。
自分の案だけ名前を出すのは、不公平だ。
言い訳は3つになった。
どれも形が違うので、3つ並ぶと理由らしく見えた。
その週、社内の掲示板に紙が貼られた。
社内公募「新サービス推進チーム」。応募条件の3行目に、こうある。
提案実績のある方。
澄香は、紙の端を指でそっと押さえた。画びょうは、きちんと刺さっていた。
「長谷部さん、応募するんですか」
後藤が横に立っていた。
「あのう、見える化のやつ、あれ確か長谷部さんの……」
「議事録は読みやすさが先だから」
澄香は先に笑った。後藤の話を、最後まで聞かなかった。
「あ、はい。そうですよね」
後藤は素直にうなずいた。
素直な人は、こういうとき助かる。
応募書類は、人事課の窓口カウンターに出す。
澄香は応募用紙を持っていった。提案実績の欄は、鉛筆で薄く「点検報告の見える化」と書いてある。
担当は戸川実という、明るい声の若い人だった。
「お預かりします。提案実績は、わたしの方でも確認しますね」
「あ、はい。お願いします」
「システムで検索すれば、だいたい出ますので」
戸川はパソコンに向かって、議事録システムを開いた。
発言者の欄に、「長谷部澄香」と打つ。
期間は、直近1年。
澄香は、カウンター越しに画面を見ていた。
見える向きだった。
結果が出る。
作成者:47件。
発言者:0件。
戸川の手が止まった。
「あ、全部、作成者ですね」
戸川はもう一度、スクロールした。
何も変わらない。
「提案は……ないですか?」
悪気のない声だった。
悪気がないので、逃げ場もなかった。
澄香は口を開けた。
言い訳を探した。
1つ目は、課長が決めたから。
2つ目は、17時までだから。
3つ目は、不公平だから。
どれも本当に言っていた。
どれもこの画面の前では、ひとつも口に出せなかった。
「締切は来週金曜の17時です。それまでに、実績が確認できる形にしてくださいね」
「……はい」
澄香は応募用紙を、自分の方へ引き取った。
鉛筆で薄く書いた字が、急に濃く見えた。
締切の前の夜。営業企画課には、澄香しか残っていない。
議事録システムに「訂正願い」というボタンがある。
この1週間、カーソルを合わせては離した。まだ一度も押していない。
発言者欄を、柳田から長谷部に直す。
それだけのことだ。
ところが、訂正は1件ずつ出す。
出席者全員の確認印がいる。1件に半日かかる。
間に合うのは、3件だった。
47件の議事録のうち、澄香の案が載っているものは44件あった。
3件を直しても、残りの41件は課長の名前のままになる。
澄香は3件を選んだ。
見える化の案が、その1番目だ。
翌朝、課長の席へ行った。
「課長、この3件の訂正に、確認印をいただけますか」
課長は画面を見た。
発言者欄の「柳田」と「長谷部」を、2回見比べた。
「ああ、あれは君だったか」
本気で驚いていた。
驚きすぎて、ちょっと感心した顔をしていた。
「いい議事録だね。助かるよ」
課長は気持ちよく印を押す。
席に戻って、訂正願いの最後の欄を開く。
訂正理由。必須入力。
入力カーソルが点滅している。
澄香は「提案者は私です」と打った。
7文字。画面にそのまま並んだ。
隣で、後藤がキーボードを叩く音がしている。
澄香はその7文字を消した。
理由欄に「表記ゆれ」と打って、送信を押した。



