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大人の事情

私は有給の理由欄で、元気な祖父を亡くした

仕事約 5 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

事務所の机で、女が手帳の罫線表に鉛筆を走らせる。課長が笑顔で横からのぞき込み、菓子箱と黒いカーディガンが置かれる。

この話は

34歳の営業事務が、元気な祖父の「三回忌」を理由に有給を取った。その嘘は、本当に休みたい日に、どんな形で返ってくるのか。

柏木理恵は34歳。港南プリント株式会社の営業事務だ。今朝、有給の申請画面の理由欄に「祖父の三回忌」と打った。

祖父は87歳で、昨夜も電話で元気だった。

理由欄は任意だ。

空のままでも出せる。

でも課長の土屋は、承認の前に必ず読む。空欄の人の席には、わざわざ来る。

「ただ休みたい」とは書けない。

課長に気を遣わせる。ただ休みたい人だとも思われる。

昨夜の電話は、こうだった。

「飯は食ってるか」

「食べてるよ」

「十一月の米寿には来いよ。平日の昼だ」

「行けたらね」

祖父は毎週日曜の夜にかけてくる。用件はいつも同じだ。


朝の営業課。土屋課長が柏木の席の横に立っていた。手には小さい手帳。

「柏木さん、三回忌なんだね」

「はい。祖父の」

「お悔やみ申し上げます。それは大事にして」

課長は手帳に何か書いた。人の事情を書き留める癖がある。

柏木は「ありがとうございます」と頭を下げた。祖父は昨夜、白いご飯を二杯食べたと言っていた。


水曜日は昼まで寝た。午後に映画を観た。平日の映画館は空いている。

着ていったのは、駅ビルで買った黒いカーディガンだ。誰かに会ったときのために。

翌日、九人ぶんの焼き菓子を配った。個包装を一人ひとつ。3200円。

「お返しです。ささやかですが」

「えっ、いいのに。大変だったね」

柏木は首を横に振った。

嘘じゃない、と思う。故人の名前は書いていない。「三回忌」と書いただけだ。

お悔やみを言ったのは課長だ。


7月に入って、また休みたくなった。

梅雨が明けた平日。何もしない日がほしい。

「また三回忌」とは書けない。祖父は一人しかいない。

柏木は手帳の後ろの頁に線を引いた。年忌表を作る。

縦に故人の名前。横に年忌の種類。

一人の故人につき、使うのは一回だけ。日付は連休の前後を避ける。

二行目に「大叔母」と書いた。理由欄には「大叔母の七回忌」と打った。

昼休み。コピー機の前で黒田が言った。

「大叔母さん? 春もそんなこと言ってなかった?」

「大叔母は別です」

「ふうん。日付、手帳に書いとくね」

黒田は日付を手帳に書く人だ。柏木は少しだけ背中を丸めた。

午後、土屋課長が席に来た。

「今年は多いね。体も気持ちも大変でしょう」

「いえ……」

「それは大事にしてあげて。無理のないようにね」

課長は手帳に書き足した。柏木は、その手元を見ないようにした。


休みの日は、朝からスーパー銭湯に行った。黒いカーディガンは鞄の底にある。

翌日、また九人ぶんの焼き菓子を配った。

レシートは財布の奥に入れた。足し算はしていない。

嘘は増やしていない。大叔母は大叔母のぶんだけだ。

表も作った。日付も選んだ。お返しも配った。

手間はかけている。嘘としては、ちゃんとしている方だ。

柏木は年忌表の二行目に、小さく丸をつけた。使い終わった印だ。


10月。柏木は理由欄に「叔父の一周忌」と打った。表の三行目だ。

表は五行ある。後ろの二行は、来年と再来年のぶんだ。足りなくならないように作った。

申請を出して30分後、課長が席に来た。

「ご親戚が多いと大変だね」

「はあ……」

「年忌を先に教えてくれたら、共有カレンダーに入れとくよ。急に休みづらいでしょ」

断る理由が出てこない。

「黒田さんが言ってた。柏木さん、年忌の表をきれいにまとめてるって」

黒田は向かいの席で、電卓を叩いていた。こちらは見ない。

「金曜までにもらえる? 先に入れとくね」

「……はい」

「それは、大事にしてください」

課長の言い方は、4月より丁寧になっていた。


金曜の朝。柏木は年忌表をコピーして、課長に渡した。

課長はその場で共有カレンダーを開いた。画面を柏木のほうに向ける。

4月。柏木 法事(祖父)。

7月。柏木 法事(大叔母)。

10月。柏木 法事(叔父)。

続柄まで付いている。誰にも頼んでいない。

「課のみんなに見えるからね。安心でしょ」

柏木はうなずいた。消してくださいとは言えない。消すには、理由が要る。

みんな何かで休む。黒田は子どもの発表会。若手は引っ越し。

こっちはお返しまで配っている。誰も損はしていない。

画面の4月の欄で、「祖父」の二文字が青く光っていた。


11月の最初の日曜。祖父から電話が来た。

「飯は食ってるか」

「食べてるって」

「二十日の昼だ。葉書を出しといた。ちゃんと来いよ」

3日後。郵便受けに祖父の葉書が入っていた。

太い字で「十一月二十日 昼十二時 米寿の祝い 理恵も来い」。

柏木は申請画面を開いた。理由欄に、初めて本当のことを打つ。

「祖父の米寿のお祝い」。

送信ボタンの上で、指が止まった。押した。

すぐに、課長が席に来た。

「米寿か。それはおめでたい。……あれ?」

課長は自席に戻った。共有カレンダーを開く。4月の欄にカーソルを置いた。

「おじいさん、4月に三回忌だったよね」

柏木は口を開けた。

言い訳は三つあった。どれも口に出す前に、形が崩れた。

全部話す。年忌表も出す。話し終えるまで10分かかった。

課長は怒らなかった。手帳の4月の頁を、黙って見ていた。

そこには課長の字で「祖父 三回忌 お悔やみ」とあった。

「元気なんだね、おじいさん」

「……はい」

課長は承認のボタンを押した。それから、笑った。

「ただ、案内状か何か、見せてもらえる? 決まりだから」

「決まりって……前からですか」

「うん。柏木さんには、聞いたことなかったけど」


柏木はコピー機の台に、祖父の葉書を伏せた。

「理恵も来い」の字が、白黒になって出てきた。

課長はコピーを受け取り、手帳に挟んだ。

共有カレンダーの11月の欄には、新しい予定が入った。

柏木 米寿(祖父)。

画面の上のほうには、4月の「柏木 法事(祖父)」がまだ残っている。

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