この話は
三十五歳の営業主任が、先に課長代理になった同期の祝いの幹事を買って出た。祝われる当人は、なぜ目を合わせようとしないのか。
昇進の発表の朝
森下啓介は35歳。葉山住設サービスの営業主任だ。
同期が昇進すると、グループトークに最初の「おめでとう」を送る。今朝は同期の久保田が課長代理になった。発表から4分で送った。
送ったあとで、画面を3回見直した。
8時52分に、人事のお知らせが全員に流れた。異動と昇進の一覧がずらりと並んでいる。
営業部の欄に「久保田浩平 課長代理」とあった。
森下は一覧を上から読み直した。3回目も上から読んだ。4回目は下から読んだ。
読み落としがないか、確かめただけだ。
8時56分。森下は指を動かした。
「久保田、課長代理おめでとう。同期の誇りだ」
誤字はない。もう一度見る。「誇り」の字を、念のためもう一度見た。
既読はすぐに3つ付いた。久保田の既読だけが付かない。
「やったな」
「次は森下じゃないか」
「俺は来年だよ。まず久保田を祝わせてくれ」
森下は紙コップのコーヒーを持って、二課の島の横を通った。
久保田は席にいた。画面を見ている。
「久保田、おめでとう。課長代理」
「ああ」
久保田は顔を上げなかった。
マウスの上で、手が止まっていた。
勝った者の気まずさか。それとも、見下しか。
どちらでもいい、と森下は思った。
先に祝った者が、器の大きいほうだ。
祝いの幹事を買って出る
昼休みに、森下はグループトークに書いた。
「祝いの会、俺が幹事やる」
「助かる」「頼んだ」とすぐに返ってきた。
久保田からは、午後になって「ありがとう」とだけ来た。感嘆符も付いていない。
その足で、森下は名入れの万年筆を注文した。
彫るのは「課長代理」の4文字。名前は入れない。
肩書きだけなら、嫌味にならない。悔しいとは、一度も言っていない。送ったのは「おめでとう」だけだ。
乾杯の台詞は、紙に書いた。3回書き直して、最後の1枚を手帳にはさんだ。
朝の電車で6回。帰りの電車で5回。つり革を握ったまま、口の中で言う。
思いつきで動かないための工夫だ。手間は惜しまない。
店は、久保田の最寄り駅の前に決めた。日付は本人の都合に合わせる。
森下が聞いたのは、日付と、苦手な食べ物と、座敷か個室かだった。最近どうか、とは聞かなかった。
「祝いの日、いつがいい。お前の都合に合わせる」
「まあ、そのうち」
1週間たって、もう一度聞いた。
「来週はどうだ」
「まあ、そのうち。今月は詰まってる」
久保田は画面から目を離さずに言った。
忙しさを見せるのも、勝者の余裕だ。森下はそう読んだ。
3回目は、笑いながら聞いた。
「来春になったら、課長に上がっちまうぞ」
冗談のつもりだった。久保田は笑わなかった。
「……来春前に、やる」
少し間があった。
「今月の最後の金曜でいい」
決まった。森下はその場で店に電話して、座敷を押さえた。
「幹事の森下です」と、言わなくていいところまで言った。
祝いの席は毎回ちゃんと回す。同期なら当然だ。誰も損をしていない。
目を合わせない同期
久保田は、森下が通ると画面を切り替えるようになった。
名前がびっしり並んだ画面が、メールの画面に変わる。1秒もかからない。
足音で分かるのだろう。森下は、見ていませんよ、という顔で通り過ぎた。
午後、村井部長が久保田を会議室に呼んだ。
扉が閉まった。いつもは開けたまま話す部長だ。
45分で扉が開いた。部長は穏やかな顔で、フロアに向かって言った。
「来春は組み替えだ。みんな、そのつもりでいてください」
フロアが少しざわついた。久保田だけが、誰とも目を合わせなかった。
組み替えを仕切るのは課長代理だ。森下はそう考えた。
出世した人間のもったいぶりだ。見せない顔をして、見せたいのだ。
その翌日の昼だった。
自席でコンビニの弁当を食べる森下の横に、久保田が来た。弁当のふたを開けたまま、箸を持たない。
「お前の家、どこだっけ。最寄り」
来た、と森下は思った。
世間話か。自慢の前振りか。家を買う話か、広い部屋に引っ越す話か。
「二ツ橋だ。急行は止まらない」
「乗り換えは」
「1回だ」
「……そうか」
久保田は唐揚げを見たまま、それ以上何も言わなかった。
結局、自慢はなかった。切り出せずに終わる自慢もあるのだろう。
夕方、森下は後輩の長谷美和に、予約表と席順の紙を渡した。
「コピー、5部。1部は予備で」
「はい。これ、見てもいいですか」
「もう見てるだろ」
「あ、見てました」
手書きの席順の表には、今夜の欄と、来春の欄が並んでいる。
久保田は奥の真ん中。森下はその斜め前。酒を注ぎやすい席だ。
「来春の欄まであるんですね」
「同期会は毎年やるからな。来春も同じ顔ぶれで」
「来春って、机が減るって噂ですよ」
「減るのは上の席だけだ。俺たちには関係ない」
森下はコピーの束を受け取った。
来春の欄の自分の名前を、ペンの尻で軽く叩いた。
久保田が見ていた一覧表
久保田浩平は課長代理になった朝、最初の仕事を渡された。
来春の課の統合に向けた配置案づくりだ。
村井部長は、会議室の扉を閉めてから言った。
「君にしか頼めないから」
部長はいつも、重い頼みごとを褒め言葉に包む。
「一課と二課を一つにします。席は減る。郊外に倉庫の拠点も立ち上げる」
「辞令の日まで、誰にも言わないでください。同期にもです」
久保田は、はい、と言った。他に言えることはなかった。
配置案の一覧には、営業部の全員の名前が並んでいる。
倉庫拠点の欄は空いていた。出すのは1人だ。
久保田は何人か入れてみた。3回入れ替えて、3回とも同じ行に戻った。
森下啓介。営業主任。
出荷の段取りを組める主任は、この部で森下だけだった。理由はそれだけだ。それが一番、言えない理由だった。
発表の朝も、その一覧を開いていた。そこでスマホが鳴った。
「久保田、課長代理おめでとう。同期の誇りだ」
右にメッセージの名前。左に一覧の名前。同じ「森下」が、両方にあった。
返事に20分かかった。「ありがとう」の5文字を、打っては消した。
最寄りを聞いたのは、往復の時間を知りたかったからだ。
二ツ橋から拠点まで、乗り換え1回で片道1時間40分。往復で3時間20分。
「1回だ」と言われて、数字が合った。合ってしまった。
祝いの席のことは、部長に言われている。
「同期の祝いは、普通にやってください。断ると勘ぐられますから」
だから断れない。できるのは、日付を延ばすことだけだった。
延ばすほど、辞令の日に近づく。分かっている。分かっていて、延ばした。
確定していない。だから、言っていない。
嘘はついていない。
久保田はそう考えて、ファイルを保存した。名前の最後に「(仮)」を付けた。
仮なら、まだ誰にも何もしていない。
乾杯と万年筆
祝いの会は、金曜の7時に始まった。
久保田の最寄り駅の前にある居酒屋の座敷だ。同期は6人。森下は席順の表どおりに、全員を座らせた。
森下は立ち上がって、ビールのグラスを持った。
台詞の紙はポケットに入ったままだ。11回練習したから、見なくていい。
「それでは。久保田課長代理の昇進を祝って」
「同期の誇りです。俺たちの先頭を、これからも走ってください。乾杯」
拍手が起きた。久保田はグラスを少し上げて、半分だけ飲んだ。
森下は細長い箱を渡した。
「ささやかだけど。使ってくれ」
久保田が箱を開けた。万年筆の胴に、4文字が彫ってある。
親指が、その文字を端からなぞった。ゆっくり、2往復した。
「……ありがとう」
「肩書きだけにした。次に変わったら、また贈る」
親指が止まった。森下は、謙遜だと受け取った。
「で、次は森下だな」
「まあ、そのうち」
答えたのは久保田だった。森下の代わりに。
笑いが起きた。森下も笑った。
お開きの前に、森下はもう一度、グラスを久保田に向けた。
「来春も、この席でな」
久保田が顔を上げた。
森下の目を、まっすぐ見た。この3週間で、初めてだった。
「ああ」
それだけ言って、久保田は先に目をそらした。
ようやく見たな、と森下は思った。祝い方では、俺の勝ちだ。
席順の表は、来春の欄まできれいに埋まっていた。久保田の鞄の表では、来春の営業部の席に森下の名前がなかった。



