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大人の事情

誰のせいにもしないのに、了解スタンプは押していた

仕事約 4 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

オフィスの給湯室で休憩する二人の会社員。一人が微笑み、もう一人は疲れた表情でコーヒーを手にしている。

この話は

31歳の営業アシスタントの女性が、同僚二人の責任の押し付け合いを島の端の席から眺めている。誰のせいにもしない人でいるつもりの彼女は、本当に関係のない席にいるのか。

平田沙織は31歳で、東和パッケージ資材の営業アシスタントをしている。月曜の朝、島の端の席から同僚二人の言い合いを眺めていた。

展示会用の資材が、違う支店に届いた。営業の角田も発注の若林も、自分の送信画面を相手に向けて説明している。

平田だけが、何も言わない。

「念のため言っておくけど。依頼は、念のため共有しましたよね」

「ここに書いてありますよね。この宛先のとおりに注文しました」

「最終確認は発注側のはずだろ」

「わたしは、書いてあった通りにやっただけです」

若林が画面を角田の鼻先に突き出す。角田は自分のスマホを、その前にさらに突き出す。

画面と画面がぶつかりそうになる。

平田は湯のみを持ったまま、心の中で数えていた。

「念のため」が3回。「書いてありますよね」が4回。

どちらも「自分が悪い」とは、一度も言っていない。

平田のスマホが震えた。課のグループチャットに、梶課長の連絡が出ている。

「資材の件、経緯をまとめておいてください」

平田は読んですぐ、了解スタンプを押した。今朝だけで、これが12個目になる。

画面を戻すとき、遡った投稿の端に数字が見えた。7桁の郵便番号だった。

頭の隅が、ほんの少しだけ引っかかる。

平田は画面を閉じた。

「じゃあ誰が悪いんだよ」

「わたしじゃないです」

平田は椅子に深く座り直した。担当じゃない。どちらの味方もしていない。

いい席だと思った。


火曜になると、押し付けはていねいになった。

角田は朝いちばんでチャットに書いた。

「念のため共有しましたよね。再確認のお願いです」

若林は同じ画面に、スクリーンショットを3枚貼って返した。

「ここに書いてありますよね。赤線を引きました」

平田は二つとも読んだ。二つとも、了解スタンプを押した。

どちらも漏らさず返している。無視はしていない。

水曜の昼前、給湯室で紙コップにお湯を入れていると、後輩の小宮つぐみが来た。

「平田さん、あの二人まだやってますね」

「やってるね」

「どっちが悪いんですか」

「どっちとかじゃなくてさ。あの人たち、自分の画面しか見てないのよ」

平田は紙コップを軽く振った。

「私なら言い訳しない。間違えたら、間違えましたって言えばいいだけでしょ」

「さすがですね」

平田の背筋が、少し伸びた。

悪くない気分だった。

自分は一度も、人のせいにしていない。連絡は全部既読にして、スタンプも返している。

担当じゃないことに口を出すほうが失礼だ。誰も損をしていない。

チャットを遡れば、金曜の17時42分に押した自分のスタンプが出てくる。

遡る理由は、まだなかった。


水曜の夕方、課の5人が小さい会議室に呼ばれた。

壁のモニターに、梶課長がチャットの画面を映す。投稿の下に、名前がずらりと並んでいた。

「責めてないですよ、確認だけ」

梶は誰の名前も呼ばない。

「これが金曜の夕方の、元の依頼の投稿です。送付先の郵便番号が、いつもの支店と違っています」

「この時点で、おかしいと気づいた人はいますか」

誰も答えない。空調の音だけがする。

角田は若林を見ない。若林は自分のスマホを伏せた。

梶がゆっくり画面を下げる。既読の一覧が出た。

8人の名前。その下に、小さい顔のマークが並んでいる。

平田沙織。17時42分。了解スタンプ。

「平田さんも、見ていたんですね」

平田は金曜の夕方を思い出した。

郵便番号の頭の3桁が、いつもと違っていた。あれ、と思った。

思って、そのまま親指が動いた。確認は営業の仕事だと思った。

「見ただけです。担当じゃないので」

言ってから、平田は口を閉じた。

角田と若林が、同時にうなずいた。

「そうですか。確認です。ありがとうございます」

梶はそれだけ言って、モニターを消した。


会議のあと、小宮は何も言わずに席へ戻った。

いつもなら、ここで「さすがですね」が来る。来なかった。

平田は席に座り、スマホを開いた。チャットを遡る。

金曜の17時42分は、すぐに見つかった。

自分のスタンプを、親指で長く押す。「取り消す」と出た。

取り消せば、17時42分のところに灰色の小さい文字が残る。見ていたことを、自分で認めた形になる。

取り消さなければ、金曜のまま残る。

どちらでも、残る。

平田は、さっき自分が言った一言を思い出した。

見ただけです。担当じゃないので。

角田は「最終確認は発注側のはずだろ」と言った。若林は「書いてあった通りにやっただけです」と言った。

平田は、指を離した。取り消さなかった。

隣の席で、小宮が自分のスマホを見ている。平田の画面は見ていない。見ていないふりをしている。

そのとき、梶の新しい投稿が届いた。

「今回の件の、再発防止の手順を共有します」

平田は読んだ。

いつもなら、もう押している。

親指は、スタンプの上で止まったまま。

既読の数字が、ひとつ増える。

見ただけだった。