この話は
31歳の営業アシスタントの女性が、同僚二人の責任の押し付け合いを島の端の席から眺めている。誰のせいにもしない人でいるつもりの彼女は、本当に関係のない席にいるのか。
平田沙織は31歳で、東和パッケージ資材の営業アシスタントをしている。月曜の朝、島の端の席から同僚二人の言い合いを眺めていた。
展示会用の資材が、違う支店に届いた。営業の角田も発注の若林も、自分の送信画面を相手に向けて説明している。
平田だけが、何も言わない。
「念のため言っておくけど。依頼は、念のため共有しましたよね」
「ここに書いてありますよね。この宛先のとおりに注文しました」
「最終確認は発注側のはずだろ」
「わたしは、書いてあった通りにやっただけです」
若林が画面を角田の鼻先に突き出す。角田は自分のスマホを、その前にさらに突き出す。
画面と画面がぶつかりそうになる。
平田は湯のみを持ったまま、心の中で数えていた。
「念のため」が3回。「書いてありますよね」が4回。
どちらも「自分が悪い」とは、一度も言っていない。
平田のスマホが震えた。課のグループチャットに、梶課長の連絡が出ている。
「資材の件、経緯をまとめておいてください」
平田は読んですぐ、了解スタンプを押した。今朝だけで、これが12個目になる。
画面を戻すとき、遡った投稿の端に数字が見えた。7桁の郵便番号だった。
頭の隅が、ほんの少しだけ引っかかる。
平田は画面を閉じた。
「じゃあ誰が悪いんだよ」
「わたしじゃないです」
平田は椅子に深く座り直した。担当じゃない。どちらの味方もしていない。
いい席だと思った。
火曜になると、押し付けはていねいになった。
角田は朝いちばんでチャットに書いた。
「念のため共有しましたよね。再確認のお願いです」
若林は同じ画面に、スクリーンショットを3枚貼って返した。
「ここに書いてありますよね。赤線を引きました」
平田は二つとも読んだ。二つとも、了解スタンプを押した。
どちらも漏らさず返している。無視はしていない。
水曜の昼前、給湯室で紙コップにお湯を入れていると、後輩の小宮つぐみが来た。
「平田さん、あの二人まだやってますね」
「やってるね」
「どっちが悪いんですか」
「どっちとかじゃなくてさ。あの人たち、自分の画面しか見てないのよ」
平田は紙コップを軽く振った。
「私なら言い訳しない。間違えたら、間違えましたって言えばいいだけでしょ」
「さすがですね」
平田の背筋が、少し伸びた。
悪くない気分だった。
自分は一度も、人のせいにしていない。連絡は全部既読にして、スタンプも返している。
担当じゃないことに口を出すほうが失礼だ。誰も損をしていない。
チャットを遡れば、金曜の17時42分に押した自分のスタンプが出てくる。
遡る理由は、まだなかった。
水曜の夕方、課の5人が小さい会議室に呼ばれた。
壁のモニターに、梶課長がチャットの画面を映す。投稿の下に、名前がずらりと並んでいた。
「責めてないですよ、確認だけ」
梶は誰の名前も呼ばない。
「これが金曜の夕方の、元の依頼の投稿です。送付先の郵便番号が、いつもの支店と違っています」
「この時点で、おかしいと気づいた人はいますか」
誰も答えない。空調の音だけがする。
角田は若林を見ない。若林は自分のスマホを伏せた。
梶がゆっくり画面を下げる。既読の一覧が出た。
8人の名前。その下に、小さい顔のマークが並んでいる。
平田沙織。17時42分。了解スタンプ。
「平田さんも、見ていたんですね」
平田は金曜の夕方を思い出した。
郵便番号の頭の3桁が、いつもと違っていた。あれ、と思った。
思って、そのまま親指が動いた。確認は営業の仕事だと思った。
「見ただけです。担当じゃないので」
言ってから、平田は口を閉じた。
角田と若林が、同時にうなずいた。
「そうですか。確認です。ありがとうございます」
梶はそれだけ言って、モニターを消した。
会議のあと、小宮は何も言わずに席へ戻った。
いつもなら、ここで「さすがですね」が来る。来なかった。
平田は席に座り、スマホを開いた。チャットを遡る。
金曜の17時42分は、すぐに見つかった。
自分のスタンプを、親指で長く押す。「取り消す」と出た。
取り消せば、17時42分のところに灰色の小さい文字が残る。見ていたことを、自分で認めた形になる。
取り消さなければ、金曜のまま残る。
どちらでも、残る。
平田は、さっき自分が言った一言を思い出した。
見ただけです。担当じゃないので。
角田は「最終確認は発注側のはずだろ」と言った。若林は「書いてあった通りにやっただけです」と言った。
平田は、指を離した。取り消さなかった。
隣の席で、小宮が自分のスマホを見ている。平田の画面は見ていない。見ていないふりをしている。
そのとき、梶の新しい投稿が届いた。
「今回の件の、再発防止の手順を共有します」
平田は読んだ。
いつもなら、もう押している。
親指は、スタンプの上で止まったまま。
既読の数字が、ひとつ増える。
見ただけだった。


