本文へ移動
大人の事情

彼の分を、私は八か月ぶん食費と書いてきた

恋愛約 6 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

夜のちゃぶ台で、紗良が家計簿にペンを走らせる。背後で蓮がくつろぎ、彼女の背中は少し強ばっている。

この話は

29歳の薬局事務の紗良は、恋人の蓮の分の支払いを、八か月のあいだ家計簿に「食費」と書き続けてきた。貸しと書けなかったその数字は、どうやって自分のところへ戻るのか。

目次(5 章)
  1. 1ラーメン屋の千円
  2. 2食費の欄が増えていく
  3. 3母に借りた二十万
  4. 4家計簿を見せた夜
  5. 5貸しと書き直した日

ラーメン屋の千円

宮下紗良は29歳で、調剤薬局の事務をしている。毎週日曜の夜に、紙の家計簿をつける。

今夜の「食費」の欄には、恋人の蓮の分のラーメンも入っている。

ちゃぶ台にボールペンと電卓を置く。先週のレシートを一枚ずつ並べる。

スーパー。ドラッグストア。ラーメン屋。

ラーメン屋は1,800円。二杯と、餃子がひとつ。

土曜の昼だった。会計の前で、蓮が「あ」と言った。

「ごめん紗良、財布、家だわ」

「いいよ。今日は私が出す」

「ありがとう、助かる」

語尾を伸ばして、蓮は笑った。

その顔を見たら、「今度返してね」は出てこなかった。

家計簿の巻末をめくる。

「貸し借り」と印刷された欄がある。買った日から、一行も使っていない。罫線だけが並んでいる。

紗良はペンを持った。「貸し」と書きかけて、止まる。

貸しと書いたら、疑っているみたいだ。

返ってこないと思っている人の字になる。

ペンを持ち直して、食費の欄に書いた。

1,800。

数字は合っている。一円も間違えていない。

電卓を叩くと、今週の食費は4,310円になった。

今月は笑い話にして、あとで返してもらえばいい。紗良はそう決めて、家計簿を閉じた。

食費の欄が増えていく

4月に、蓮が会社を辞めた。

「あそこは合わないんだ。次が決まるまでの数か月だけ。ごめん」

「うん。大丈夫」

「ありがとう、助かる」

その月から、蓮の分が増えた。

スマホ代の5,800円。動画サイトの月額。スーツのクリーニング代。

家賃も、足りない分を紗良が出した。

どれも家計簿には「食費」か「日用品」で入っていく。

食費の欄は、月3万円から6万円になった。7月には9万円を超えた。

数字はどれも合っている。紗良は電卓をもう一度叩いた。同じ数字が出ると、少しほっとした。

日曜の夜に母から電話が来る。

「ちゃんと食べてるの」

「食べてるよ。彼とは割り勘だし」

「そう。あなたが大丈夫なら、いいのよ」

友人の彩にも同じことを言った。「ちゃんと出してくれてるよ」と。

心配させないための言い方だ。嘘というほどではない。

昼ごはんはおにぎり1個になった。

美容院にも行かなくなって、前髪は洗面所でハサミを入れた。少し曲がった。

蓮は毎回ちゃんと「ありがとう」を言う。

ただ、「返す」とは一度も言わない。紗良はそれを数えていなかった。

薬局の休憩室で、おにぎりを食べながら家計簿を開く。

向かいで、先輩のちひろがお弁当のふたを取った。視線が、紗良の手元で止まる。

「それ、食費で合ってる?」

「合ってます。最近、よく食べるので」

「ふうん」

ちひろは卵焼きを口に入れた。おにぎりを持つ紗良の手を、一度だけ見た。

母に借りた二十万

9月の終わり、通帳の残高は4,212円になった。

家計簿の数字と通帳の数字は、ぴったり合っている。

ただ中身は、ほとんど紗良の口に入っていない。

日曜の夜、紗良は母に電話をかけた。

「あのね。歯の矯正を、したくて」

「あら。急ね」

「前から気になってて。20万、貸してもらえないかな。ちゃんと返す」

電話の向こうで、母が少し黙った。

「あなたが大丈夫なら、いいのよ」

「大丈夫」

「ご飯は食べなさいね」

翌日、20万円が振り込まれた。

振込の名前は、宮下昌子。メモ欄には、母の字で「歯、がんばって」と入っていた。

紗良は画面を閉じた。家計簿の「収入」の欄には、まだ書かなかった。

月曜の昼、休憩室。ちひろがお弁当を広げる。

紗良の家計簿が、机の端に開いたままだった。

「食費、11万って書いてある」

「あ、これは……」

「それ、食費で合ってる?」

紗良は笑った。口の端だけ上げて、笑った。

「そうなんです。ほんとに、食べちゃって」

ちひろは何か言いかけて、やめた。

「ならいいけど」

その夜、蓮からメッセージが来た。

「内定出た! 10月から行ける。紗良のおかげ。ありがとう」

紗良は「おめでとう」と返した。

返事を打つ指が、ひとつ遅れた。

家計簿を見せた夜

10月の日曜、蓮は夕方からアパートに来た。

手には、コンビニのケーキが二つ。内定祝いは自分で買ってきた。

「いやあ、決まったよ。長かったな」

「うん。ほんとによかった」

紗良はフォークを置いた。

何度も頭の中で言った言葉を、口に出す。

「あのさ。今までの分、少しずつ返してほしい」

蓮の手が止まった。

「今までの分って?」

「4月からの。家賃とか、スマホとか。全部」

紗良は家計簿を取って、ちゃぶ台に置いた。

蓮はクリームのついた指をティッシュで拭いた。それから家計簿を手に取った。

ページをめくる。ゆっくり、めくる。

「これ、食費って書いてあるじゃん」

「それは、その……」

「貸しなら貸しって書くでしょ、紗良は」

悪気のない声だった。

蓮は巻末までめくった。「貸し借り」の欄は、罫線だけだった。

「ここ、空じゃん」

紗良は何も言えなかった。

「ご馳走になってると思ってた。ありがとうって、毎回言ったし」

言っていた。毎回、言っていた。

紗良はそれを、一回ずつ思い出せた。

「疑ってたわけじゃないよ。ほんとに」

「うん。じゃあ、なんで書かなかったの」

答えは紗良の字で、全ページに並んでいた。

蓮は家計簿を閉じて、ちゃぶ台の端に置いた。

「ごめん、今日はもう帰るわ。考えとく」

ケーキは、蓮の分が半分残っていた。

貸しと書き直した日

蓮が帰ったあと、紗良は赤ペンを出した。

家計簿を、3月のページまで戻す。

レシートを一枚ずつ出して、蓮の分だけ丸をつけていく。

ラーメン屋の1,800円。一行ずつ、順番に。

手つきは、毎週の家計簿と同じだった。ただペンの色だけが赤い。

夜中の2時に、電卓を打ち終えた。

合計は432,000円。

家賃の足りない分が180,000円。食事が142,200円。スマホ代が38,500円で、残りはサブスクとクリーニングと日用品。

紗良はそれを項目別の明細にして、蓮に送った。

朝になって、電話が鳴った。

「疑ってたんだ。ずっと」

「疑ってない。書き方が、違っただけ」

「同じことでしょ」

蓮は怒っていた。怒ったまま、昼にまた電話をかけてきた。

「半分なら、返す。2年で」

月に9,000円。紗良は「わかった」とだけ言った。

次に、母に電話をかけた。

「お母さん。歯の矯正って言ったの、嘘だった」

母は、しばらく黙った。

「……あなたが、大丈夫なら」

その先は続かなかった。紗良は、先に20万円の返し方を話した。

その週、友人の彩からメッセージが来た。

「蓮くん内定おめでとう。ずっと割り勘だったもんね、えらい」

紗良は画面を見て、指を止めた。

「うん」とだけ返した。

蓮とは、会う回数が減った。会うと、お互いに財布の位置を気にした。

11月の頭に、スマホが鳴った。振込の通知だった。

3,000円。

紗良は家計簿の巻末を開いた。「貸し借り」の欄の、いちばん上に「3,000」と赤で書いた。

それから、振込の明細をもう一度見た。

メモ欄には、蓮の字で「食費」と入っていた。