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大人の事情

既婚の課長との食事代を、毎回半額で振り込んでいる

恋愛約 5 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

昼休みの机で、伏せたスマホに手を添える女性と、その手元を笑って褒める先輩。

この話は

印刷会社の校正課で働く38歳の女性が、同じ会社の既婚の課長と、毎回食事代を半額ずつ出し合っている。奢られない、家庭に触れないと決めた彼女に、何が返ってくるのか。

目次(5 章)
  1. 1蕎麦屋で半額を出す
  2. 2守ることは九つある
  3. 3振込メモに日付を書く
  4. 4十月の月末
  5. 5全部合っていた

蕎麦屋で半額を出す

金曜の夜。駅から三つ離れた町の蕎麦屋で、わたしは財布から自分の分の半額を出した。

桐野志保、38歳。港南印刷の校正課にいる。向かいの長谷川さんは営業課長で、家には奥さんがいる。

伝票は7360円。

ぴったり半分にすると3680円になる。

でも海老天を頼んだのはわたしで、彼は野菜天だった。海老のほうが200円高い。

「3780円ね」

折りたたみ財布の小銭入れから、数えて並べる。

千円札が3枚。500円玉が1枚。100円玉が2枚。50円玉が1枚。10円玉が3枚。

ちょうどあった。ちょうどあるように、いつも崩して持っている。

「細かいなあ。現金でいいって」

長谷川さんは笑って、湯のみを持ち上げた。

「現金は残らないので」

「残らないって、何が」

「記録です。帰ってから振り込みます」

わたしは並べた小銭を、また財布に戻した。

奢られたら、愛人になる。わたしはそう思っている。

払ったと言えるのは、払った跡が残るお金だけだ。

「ほんとに現金でいいって。俺の口座、給料が入るやつ一つだけだからさ」

「それなら、間違えようがないですね」

長谷川さんは少し黙った。それから、お茶をすすって言った。

「志保さんは、ほんと手がかからないな」

ほめられた。わたしはそう受け取った。

家に着いて、靴を脱ぐ前にアプリを開いた。

宛先は彼の給料が入る口座。登録してあるのは、それ一つだけだ。

金額は3780円。メモ欄には「夕食代」と書いた。

送信。これで、わたしは何も借りていない。

守ることは九つある

わたしのスマホには、「守ること」というメモがある。

九行だけの短いメモだ。

1. 土日は連絡しない

2. 奥さんの名前を口にしない

3. 家の最寄り駅には降りない

4. 会社では「課長」と呼ぶ

5. 夕食は割り勘。一円も奢られない

6. 贈り物はもらわない

7. 写真は撮らない

8. 終電の前に帰る

9. 振込は当日中に済ませる

金曜の夜に、必ず見直す。九つとも、守れている。

家には一歩も入っていない。何も奪っていないし、何ももらっていない。

先月の夕食は、半額で3210円だった。もちろん当日に振り込んだ。

長谷川さんは毎回かならず奥さんの話から始める。

「うちさ、冷蔵庫の音がうるさいって怒られてさ」

「そうですか」

わたしは名前を口にしない。聞くだけだ。

聞くことは、九つのどれにも入っていない。

月曜の昼。校正課の机には、赤ペンと表記統一の一覧が広げてある。「ください」か「下さい」か。わたしは全部そろえる。

「志保、お昼まだ?」

先輩の菜摘さんが、衝立の上から顔を出した。

休憩室の自販機の前で、菜摘さんが缶コーヒーを買ってくれた。130円だった。

「いいのいいの、130円だし」

わたしは小銭入れから、100円玉と10円玉を3枚出して渡した。

「借りは作りたくないので」

「志保は偉いよ、ちゃんとしてる」

菜摘さんは笑って、小銭を受け取った。

偉い、と言われた。何も借りていない人は、偉いのだ。

奪わない。もらわない。家に入らない。

一番迷惑をかけない人の中で、わたしはたぶん一番上にいる。

振込メモに日付を書く

6月14日。その晩は蕎麦屋ではなく、魚を出す店だった。

長谷川さんは、焼き魚をほぐしながら笑って言った。

「美帆は月末に通帳を全部記帳して、家計簿に写す人でさ」

「一円でも合わないと、機嫌が悪いんだよ」

わたしは箸を止めた。名前は聞こえたけれど、口には出さない。

月末に、通帳。家計簿に、写す。

そこに、わたしの3780円や3210円が並ぶ。「夕食代」とだけ書いて。

誰の、何のお金か分からない入金。分からないものが、いちばん人を不安にさせる。

だったら、分かるように書けばいい。

隠さないのは、奥さんへの思いやりだ。

「今日から、振込メモをちゃんと書きます」

「ちゃんとって」

「日付と、内容と、半額と、名前です。6/14 夕食 半額 桐野」

「そこまで書かなくても」

「気遣いです。奥さんへの」

長谷川さんは何か言いかけて、グラスの水を飲んだ。

「……そう」

それ以上は言わなかった。

帰りの電車で、メモの形を決めた。

日付。内容。半額。名前。毎回この順に、同じ書き方で。

仕事と同じだ。表記は、そろえる。

6/14 夕食 半額 桐野

打ち間違いがないか、送る前に2回読んだ。

送信すると、画面に「振込完了」と出た。

いいことをした気分で、その夜は眠った。

十月の月末

10月の最後の週に入って、長谷川さんの返信が短くなった。

先月までは、「お疲れさま」のあとに一言あった。今は「了解」だけだ。

金曜の夕食が、流れた。

「今週ごめん。ちょっと立て込んでて」

「来週は大丈夫ですか」

「了解」

了解は、返事の形をしているだけだ。

わたしは守っている。土日は連絡しない。名前は言わない。駅には降りない。

ルールを守っているのは、わたしだけだ。

夜、スマホの画像フォルダを開いた。振込完了の画面は、毎回保存してある。

数えるのは、6月14日からの分だけ。それより前は「夕食代」としか書いていない。日付がないものは、数えられない。

6/14、6/28、7/12、7/19。1件ずつ、声に出さずに読む。

日付も、内容も、名前もある。抜けも重複もない。

電卓に打つ。

14件。合計114000円。

安い日で5200円。高い日は13400円。店は少しずつ、立派になっていた。

数字は、どれも正しい。

正しい数字は、見ていると落ち着く。

彼が黙っているのは、わたしの数字を信じているからだ。そう思った。

その夜は、よく眠れた。

全部合っていた

翌週の水曜、昼休み。

校正課の机でお弁当の蓋を開けたとき、スマホが震えた。

通帳アプリの、入金のお知らせだった。

114000円。差出人は、ハセガワシュウヘイ。

そうだ。彼の口座は、給料が入るやつ一つだけだった。

備考欄を開く。

ご精算 14件

わたしの書き方と同じ形だった。

続けて、メッセージが届いた。

「妻が全部、君の書き方で数えた。一件も違いはなかったそうです」

最後だけ、です・ますだった。

「妻から伝言。合っていますね、だそうです」

月末の家計簿に、わたしの字が並んだのだと思う。

夕食。半額。桐野。日付つきで、14行。

わたしはフォルダを開いた。

控えを1枚ずつ見る。電卓を打つ。

114000円。

合っていた。

貸しも借りも、ゼロになった。わたしが守ってきた形のままで。

菜摘さんが通りがけに、机の赤ペンをのぞいた。

「何か校正してる?」

「はい。数字を」

「志保は偉いよ、ちゃんとしてる」

わたしは、赤ペンを持ったまま座っていた。

合っている原稿に、赤は入れられない。