この話は
眼鏡店で働く29歳の女性が、恋人の既読が付いた時刻を毎日メモに書き足している。彼女が数えているのは、本当に彼の遅さだけなのか。
柏木ゆいは29歳で、駅ビルの眼鏡店で働いている。昼休みの休憩室で弁当を開き、スマホのメモを出した。
彼女は責めていない。恋人の既読の時刻を、記録しているだけだと思っている。
メモの題は「既読ログ」。
最初は3行だった。いまは11行ある。
ゆいは昨夜の分を書き足す。
昨夜の送信は20時12分。既読は22時26分。
差は2時間14分。今週の平均より少し長い。
卵焼きを口に入れて、心の中で唱える。
責めてない。記録してるだけ。
「なんで遅いの」とは、一度も送ってない。スクショは撮るけれど、誰にも見せていない。
昨夜、悠斗は電話でこう言った。
「ごめん、帰ってから返そうと思って」
ゆいは「いいよ、全然」と笑った。笑ったあとで、2時間14分を書いた。
画面の端に、菜々の通知が残っている。
「例の件、どうする?」。届いたのは16時間前だ。
ゆいは開かない。プレビューで読めば、読んだことになる気がする。
通知を指で上に払って、弁当のふたを閉めた。
ゆいには決まりがある。
悠斗が既読を付けたら、ちょうど10分あけて次を送る。
すぐ送ると、待っていたと思われる。遅いと、冷たいと思われる。
だからタイマーを使う。既読の時刻を見たら、10分にセットする。
その間に文を打って、下書きに保存する。深呼吸を一回。鳴ったら送る。
手間は惜しんでいない。
日曜の夕食でも、悠斗は唐揚げを取りながら言った。
「俺さ、通知で見て、帰ってから返す派でさ」
語尾が伸びる。ごまかすような笑い方だった。
「ちゃんと読んでから返したいんだよね。ほんとに」
「そうなんだ」
ゆいも笑った。笑いながら、心の中で一行足した。
通知で読む派。ちゃんと、は二回。
彼のスマホは一度も見ていない。
見えるのは、自分の画面に出る時刻だけ。誰も損をしていない。
先月、菜々と飲んだときにも言われた。
「ゆいのは、いつも夜中だよね」
菜々は枝豆をつまんで、軽く笑っていた。
「たまたまだよ」
ゆいはそう流して、話を悠斗に戻した。
責めない。10分あける。見ていない。
三つ並べると、どれも立派に見えた。
仕事を終えて、駅のホームに立った。電車まであと4分。
スマホが震えた。画面に「菜々」と出ている。
通知なら払える。着信は払えない。ゆいは出た。
「あ、出た。ゆい、例の件、返事まだ?」
来月の旅行の宿の話だ。最初に誘われたのは日曜で、もう3日になる。
「ごめん、まだ返せてなくて」
「既読はついてたよね」
菜々の声は軽い。責める調子ではなかった。
ゆいの口が先に動いた。
「ちゃんと読んで、ちゃんと返したかったから」
言ってから、気づいた。
日曜の夕食で聞いた文面と、一字も違わない。
「そっか」
菜々はそれだけ言って、電話を切った。
すぐに、画像が一枚届いた。
ゆいとのトーク画面のスクショだった。
送信は日曜の17時20分。既読は月曜の1時48分。
菜々は何も添えていなかった。事実だけ。
ゆいは親指で、トークを上にたどり始める。
0時55分。2時3分。1時12分。
電車が来た。ゆいは画面から目を離せないまま乗り込んだ。
座れた。ゆいはメモを開く。
「既読ログ」の「悠斗:2時間14分」の隣に、新しい列を作った。
見出しは「ゆい→菜々」。
日曜の分を入れる。8時間28分。
悠斗の最長より、6時間以上長い。
その下に、さっきたどった分も打ち込んでいく。
指は止まらなかった。数えるのは得意だ。
悠斗の言い訳を、心の中で何度も笑ってきた。
同じ言い訳で、菜々を待たせていた。
菜々のトークを開く。返信の欄に打つ。
「ごめん、ちゃんと読んでから返そうと思って」
消した。同じ文だった。
打ち直して、下書きに保存した。送信は押さなかった。
反省はしなかった。代わりに、列が二つになった。
ゆいは少し考えて、三つ目の列を足した。
見出しは「ゆい→悠斗」。数字を入れる欄は、まだ空いている。



