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大人の事情

婚活の年収欄、来年の分を先に書くのは嘘ですか?

恋愛約 6 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

夕方のカフェで向かい合う大人二人、湯気の立つカップと静かな間合い

この話は

38歳の営業係長が、婚活ラウンジのプロフィール帳で自分の年収欄を書き直した。翌週に会った相手が希望条件どおりだったのは、なぜか。

目次(5 章)
  1. 1ラウンジの棚の前で
  2. 2初めての食事で
  3. 3会計のレシートを見て
  4. 4同じ夜、理沙の側から
  5. 5二回目の約束

ラウンジの棚の前で

柏木直人は38歳で、住宅設備の卸会社の営業係長をしている。

駅前の婚活ラウンジ「あおぞら縁むすびサロン」で、自分のプロフィール帳を開いた。年収欄の「480」に、定規で二重線を引く。

横に「600」と書いた。

今月から、ラウンジの紹介を受けている。先月までは、希望欄で3回断られた。理由の欄は空白だった。

さっき読んだ頁が、きっかけだった。

水野理沙、34歳。希望欄に「年収600万円以上」とある。

480の人は、この頁から先に進めない。

年齢欄にも二重線と訂正印があった。誕生日の前に書いたのだろうと思った。線の下の数字は読んでいない。

隣の読む席で、女性が帳を一冊閉じた。棚に戻して、また席に着く。

直人は顔を見なかった。自分の帳が、棚の端で斜めに差さっていたことのほうが少し気になった。

帳を持って受付へ行く。

「訂正の場合は、二重線と訂正印でお願いします」

受付の坂口恵子は、顔も上げずに印鑑を出した。理由は聞かれない。ここはそういう場所だ。

直人は「600」の横に押した。朱がにじんで、少し濃くなった。

嘘ではない、と直人は思った。

「600」とは書いた。でも「今年の」とは書いていない。

来年の昇給とボーナスを足せば届く額だ。見込みの額を、先に書いただけだ。

帳を棚に戻す。今度はまっすぐ差した。

入口は通った。

初めての食事で

翌週の土曜。直人は駅の近くのビストロで、水野理沙を待っていた。

腕時計を見る。文字盤が大きい。先月、ボーナス払いで買ったものだ。

名刺入れも革の新品で、角がまだ硬い。

理沙は5分前に来た。明るい色のスカーフを巻いている。

「水野です。今日はよろしくお願いします」

名刺を渡すと、理沙は両手で受けて肩書を読んだ。

「営業係長さん。そうなんですね、すごい」

1回目だった。

「年に120戸くらい、水回りの設備を入れてます。今年は波があって、来年は伸びる予定ですけど」

「そうなんですね、すごい。大変じゃないですか」

2回目。直人は水を一口飲んだ。悪くない。

「わたし、大学のころはまだ折りたたみの携帯で。みんなストラップをじゃらじゃらつけてて」

直人はフォークを止めた。

折りたたみ。ストラップ。大学。

34歳なら、大学の頃にはもうスマホだったはずだ。頭の中で引き算をする。答えは37か38になった。

「あのドラマの主題歌、高校のとき毎週……あ、再放送で見たんです」

「ああ、再放送」

直人は笑ってうなずいた。言い直したな、と思った。

年齢欄のほうが、ずっと重い嘘だ。

年収は来年には届く。年齢は一生届かない。

それに自分は、会ってから本当の額を言うつもりでいる。会う前に弾かれたら、言う機会もない。600は入口を通すための記入だ。

「柏木さんのカード、35歳までって書いてありましたよね」

「ええ」

「わたし、ぎりぎりでよかったです」

ぎりぎりどころか、3つ超えている。

直人はなぜか、腹が立たなかった。

会計のレシートを見て

会計は9,860円だった。

直人は伝票を先に取った。

「ここは僕が」

600の人なら、そう言う。そう思って、先に言った。

「いえ、半分出します」

理沙は財布を開いて、千円札を4枚出した。百円玉を9枚。十円玉を3枚。

トレーに小銭が積み上がっていく。

「端数まで、ですか」

「はい。きっちりしてないと落ち着かなくて」

慎重な人だ、と直人は思った。

小銭を数える理沙の目が、一度だけ直人の腕時計に落ちた。

ほんの一瞬、自分の600が見えている気がした。

気のせいだ。すぐに打ち消す。

向こうこそ、歳を3つ若く書いている。

相手が盛っているのに、こちらだけ正直に書くのは不公平だ。お互いさまなら、入口の手続きは同じでいい。

「今日は楽しかったです」

「こちらこそ。また会えますか」

「ええ。プロフィール帳、またラウンジで見ますね」

気に入られたのだと、直人は思った。

駅の改札で別れた。

「お互いさま」と口の中で言ってみる。言うと、少し軽くなった。

同じ夜、理沙の側から

帰りの電車で、理沙は吊り革につかまっていた。

財布の中に、レシートの控えが折って入っている。半分きっちり出した証拠だ。

一週間前、理沙は37歳だった。

あの日、読む席で直人の頁を開いた。希望欄の「35歳まで」で手が止まった。

同じ希望欄を、これまでに14冊分見た。どれも35か、それより下で線が引いてあった。

会ってもらえれば分かる。年齢は顔に書いていない。会ってもらえないから、会えない。

その理屈で、受付に行った。37に二重線を引いた。34と書いた。坂口さんは顔も上げずに印鑑を出した。

席に戻って、直人の帳を棚に返した。斜めに差してしまった。

そこへ、本人。

理沙の頁を開いて、少し読んで、隣に座った。

理沙は見ていた。

直人は「480」に定規で線を引いて、「600」と書いた。線は細かった。下の数字は、隣の席からはっきり読めた。

理沙の希望欄は「年収600万円以上」だ。

この人は、わたしの頁を見て直したのだ。そう分かった。

言わなかった。言えば、わたしの34の話になる。

今夜もそうだった。「来年は伸びる予定で」と聞いたとき、理沙は「すごい」と言った。3回目は飲み込んだ。

ストラップの話では、直人が天井を見て唇を動かした。数えている、と分かった。だから「再放送で見たんです」と足した。

割り勘にしたのも、わけがある。

600の人におごられたら、借りができる。借りの分だけ、わたしの34がふくらむ気がした。

彼は、わたしの歳に気づいている。気づいて、何も言わなかった。

理沙にはそれが、やさしさに見えた。

窓に自分の顔が映っている。

年齢で一覧から外され続けた。吊り革を持つ手に、少し力が入った。

120万円と3歳。どちらが重いのか、うまく比べられない。比べないことにした。

スマホが震えた。直人からだ。

「今日はありがとうございました。また会えますか」

返事を打つ前に、理沙は帳の朱を思い出した。まだ新しい色だった。

二回目の約束

直人は店を2軒見比べた。

ひとつは、前回と同じ値段のビストロ。もうひとつは、コースが1人1万5千円のフレンチだ。

600の人なら、後のほうだ。

「土曜の夜、予約しました。少し良いお店です。気にしないでください」

理沙はその文面を、3回読んだ。

「楽しみです。今回も割り勘でお願いします」

直人はスマホを持ったまま、来月の引き落としの日を思い出した。半分でも7,500円。

「もちろん」

打ってから、少し間があった。

「理沙さんは、どんな曲が好きですか」

理沙は「高校のとき毎週聴いてた」と打った。消した。

「最近の曲が多いです」

直人はその一行を見て、天井を見た。最近が何年前なのかは、数えないことにした。

彼女の頁は、34のままだ。自分の頁は、600のままだ。

彼女の希望欄は600以上。自分の希望欄は35まで。

どちらも、ぴったり収まっている。

理沙も同じ画面を見ていた。同じ夜に、同じ長さの文を打った。

送信は、ほとんど同時だった。

「こんなにぴったりな人は、運命としか思えません」

「こんなにぴったりな方は、運命としか思えません」

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