この話は
タワーマンションの4階に住む37歳のパート事務の女性が、5年間、ママ友に階数を言わずに暮らしている。毎朝エレベーターで別の階のボタンを押す、その手間は誰にも見られていないのか。
エレベーターで九階を押す
橘さゆりは37歳。湾岸のタワーマンション「アーバンクレスト湊タワー」の4階に、5年住んでいる。
朝のエレベーターで誰かと乗り合わせると、先に押すのは4ではなく9のボタンだ。
7時52分。息子のそらを登校の列に預けて、さゆりは1階のホールに戻ってきた。
エレベーターには黒いコートの男が先に乗っている。毎朝同じ時間に同じ顔だ。
男が20のボタンを押す前に、さゆりは9を押した。
男は何も言わない。スマホを見たまま、小さくうなずいただけだった。
9階で降りる。廊下では掃除の女性がモップを止めて、いつものように会釈をした。
「おはようございます」
「おはようございます」
さゆりは廊下の突き当たりまで歩く。非常階段の重い扉を肩で押した。
踊り場には、誰かが置いた古い傘立てがある。5年前からずっとある。
降りる。5階分で116段。さゆりは毎朝、頭の中で数えている。
4階の扉の前で、ハンカチで首の汗を押さえる。
そのまま階段に座って、スマホを出す。昨夜の夜景の写真に、いいねが143ついていた。
昨日より11増えている。さゆりは指でひとつずつ数え直した。
嘘はついていない、と思う。
聞かれたら答える。聞かれないことを言わないだけだ。
今朝のエレベーターでも、誰も聞かなかった。
ラウンジのお茶会で
土曜の午後、30階のラウンジで水野梨香のお茶会があった。
月に一度。ガラス窓の向こうに湾が広がる。この席に呼ばれると、さゆりはいつも背筋が伸びる。
「さゆりさん、来てくれてうれしい。うちなんて全然、おもてなしできないんですけど」
梨香は27階に住んでいる。そう言いながら、紅茶を高い位置から注いだ。
「でも花火の日だけは特等席なんです。うちなんて全然ですけどね」
ほかの二人が笑った。さゆりも笑った。
梨香がカップを置いて、さゆりを見た。
「そういえば、さゆりさんって何階でしたっけ」
紅茶の湯気が、一瞬止まったように見えた。
「下のほうなんです」
さゆりは笑って、手を振った。それ以上は言わなかった。
梨香も、それ以上は聞かなかった。
ラウンジの予約表には、さゆりの名前が毎月のように並んでいる。住人なら誰でも使える場所だ。
眺望もジムも全員の持ち物。4階でも、使う権利は同じ。さゆりはそう思っている。
だから夜景の写真も、盛ってはいない。
予約が取れない夜は、20階の共用廊下で撮る。場所は書かない。
宅配はぜんぶ、コンシェルジュ預かりにしてある。箱に住戸番号が出るのが嫌だった。
ひよりがさゆりのスマホをのぞき込んだ。梨香の娘で、そらと同じクラスだ。
「それ、見たことある」
「ひより、お行儀」
梨香がやさしく止めた。ひよりは口をとがらせて、クッキーに手をのばした。
さゆりはスマホを伏せて、紅茶を飲んだ。味はしなかった。
夫に言われた一言
その夜、夫の大地はダイニングで返済表を広げていた。
月に一度、これを眺める。残り28年。赤ペンで、今月分に線を引く。
「今日どうだった、お茶会」
「うん。普通」
「何階か聞かれたでしょ」
さゆりは洗い物の手を止めなかった。
「下のほうって言った」
「四階でいいじゃん。上は風が強いって言うし」
大地は返済表から目を上げない。声はいつもどおり丸かった。
「そういう問題じゃない」
「どういう問題なの」
さゆりは答えなかった。蛇口の水が、必要以上に長く流れた。
大地は階数を隠したことが一度もない。会社の飲み会でも、宅配の人にも、普通に「4階」と言う。
この家の階の話は、さゆり一人のものになっていた。
風呂上がりのそらが、タオルを頭にのせたまま来た。
「ママ、なんでないしょなの」
さゆりの手が止まった。
「宿題やったの。絵、描くんでしょ」
そらは首をかしげて、自分の部屋に戻っていった。
翌朝も、さゆりは9を押した。
階段の途中で、右の膝がきしんだ。湿布は昨夜貼ったのに、また痛む。
でもこれは運動だ。やりたくてやっていること。階段なら無料のジムみたいなものだ。
116段。今日も数えながら降りた。
息子の宿題発表
木曜は参観日だった。湊ヶ丘小学校の2年生の教室に、親たちが並んでいる。
後ろの壁には「おうちの絵」が全員分貼ってある。階数順ではなく、名簿順だった。
さゆりは小さく息を吐いた。名前の順なら、高い低いは見えない。
斜め前に梨香が立っている。目が合って、梨香が小さく手を振った。
先生が言った。
「では、橘そらさん。絵の発表をお願いします」
そらは絵を両手で持って、前に出た。
大きな建物の四角い窓のひとつに、赤いクレヨンで丸がついている。下に大きく「4かい」と書いてあった。
「ぼくのおうちは、4かいです。まどから、にわの木のてっぺんが見えます」
さゆりは息を止めた。そこまでなら、いい。
「ママはいつも9かいでおりて、かいだんでおりるんだよ」
教室が静かになった。
「なんでかは、わかりません」
そらは絵を胸に抱えて、席に戻った。
前の席のひよりが、振り返ってうなずいた。
「それ、見たことある」
先生が「ありがとう」と言って、次の子を呼んだ。
さゆりは笑顔のまま、立っていた。足の裏だけが冷たい。
梨香の顔を見た。こわばっていない。
むしろ、ほんの少しほっとしているように見えた。
防災訓練の名簿
参観日のあと、さゆりと梨香は並んで帰った。
ひよりとそらは、数歩前をはしゃいで歩いている。
「そらくん、いい発表でしたね」
「すみません、変なことを」
「変じゃないですよ。わたし、前から聞いてたんです」
梨香は笑っていた。責めている声ではなかった。
「朝に階段を歩いてる人がいるって。管理人さんは『九階の人』って呼んでました」
さゆりは「九階の人」を、心の中で一回言ってみた。
4階の人、ではなかった。
「去年の停電、覚えてます? うち、27階分、階段で降りたんですよ」
「それは……大変でしたね」
「膝が3日、使い物にならなくて。だから低層階、本当にうらやましいんです」
さゆりが何か言う前に、梨香はバッグから紙を出した。
来週の防災訓練の名簿だった。
いちばん下の欄に、空白がある。「低層階代表」と印刷されていた。
「これ、誰も手を挙げなくて。さゆりさん、階段慣れてるし、どうですか」
「慣れてる、ですか」
「だって毎朝歩いてるんでしょ。そんな人、他にいないですから」
さゆりのスカートの下で、膝の湿布がかさりと鳴った。
梨香がペンを差し出した。
名前の横に、「階」の欄がある。
さゆりは自分の字で「4」と書いた。これで来週も、階段を歩く理由ができた。



