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大人の事情

フォロワーは増えたのに、缶クッキーは九つ残った

見栄約 5 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

夜の台所で、女性が伏せたスマホを片手で押さえる。テーブルには空の缶と、常連からの短い礼状が重なっている。

この話は

歯科医院の受付パートをしながら缶クッキーを売る32歳の女性が、催事の応募条件「フォロワー3,000人」に860人足りないことに気づく。一度だけ買った数字は、どこまで増えていくのか。

梶原結菜は32歳で、歯科医院の受付のパートをしている。休みの日は台所で缶入りクッキーを焼いて、アカウントで売っている。

毎朝、起きてすぐ数字を見る。2,140。

駅ビルの秋の催事「てしごと市」の応募条件は、フォロワー3,000人以上だった。

あと860人。

締め切りは金曜。今日は水曜だ。

昼休み。休憩室でおにぎりを食べながら、結菜は検索窓に打った。

「フォロワー すぐ増える」

いちばん上のページに、人数を選ぶ欄があった。860人は、1,980円。

ランチ2回分より安い。

結菜は画面を閉じた。

夜、布団の中でまた開いた。閉じた。もう一度、開いた。

ふと、自分の投稿を見た。コメント欄の一番上は谷口さんだった。毎月、必ずひとこと書いてくれる。

「今月の缶も楽しみにしています。第一土曜に伺いますね」

結菜は天井に向かって言ってみた。

「欄を埋めるだけ。審査に通すための手続き」

「お客さんをだましてるわけじゃない」

「焼いてるのは本物だし」

午前1時12分。支払いのボタンを押した。

朝、数字は3,000になっていた。

きっかりだった。

金曜の夜、事務局の島田さんからメールが届いた。

「数字は確認できましたので、審査を通過しました。出店をお待ちしています」

結菜は台所へ行って、缶をひとつ開けた。

クッキーを1枚かじる。

いつもの味だった。


1週間で、数字は2,910になっていた。

90人減っている。

補充はボタン一つで済んだ。3,000に戻る。

次に気になったのは、投稿のほうだった。

フォロワー3,000人で、いいねが18。

反応が薄いアカウント。そう見えるのが嫌だった。結菜は18の数字を指で隠した。

月3,480円で、いいねとコメントも足せるらしい。

「広告費みたいなものだよね」

「ほかのお店も、みんな払ってるし」

翌朝、いいねは240になった。

コメント欄に、同じ言葉が3つ並んでいる。

「素敵です」

「素敵です」

「素敵です」

知らない名前。アイコンは花と猫と空。

結菜は、そのうち1つを消した。2つなら自然に見える気がした。

スマホのメモ帳に、新しい欄ができた。

「維持費」

1,980。3,480。補充したぶん。

缶1つの利益は800円。それも、メモの端に書いた。

前は日曜に3時間焼いて、写真を10枚撮った。今は焼いて、写真は2枚。残りの時間は管理画面を見ている。

写真を撮る時間が、数字を直す時間になった。

第一土曜。谷口さんが玄関に来た。

「缶を2つお願いね」

「ありがとうございます」

「あら、最近は写真がにぎやかね」

「見てくれる人が、増えたみたいで」

「そうなの。よかったわね。私は前のも好きだったのよ。……ごめんなさい、年寄りの感想だから」

結菜は笑って、缶を渡した。

谷口さんが帰ってから、メモを開く。

今月、谷口さんの2缶の利益は1,600円。維持費の欄は5,460円。

結菜はその2つを、別々の欄に書いた。


出店料は18,000円だった。振り込みの控えは、手帳に挟んだ。

前の晩は夜中まで焼いた。缶は40個。

当日。会場は駅ビルの3階で、吹き抜けのそばだった。白いクロスの長机に、缶を積む。首から下げた名札には「ゆなの缶クッキー」とある。

隣は自家製ジャムの藤井さんだった。毎回出ている常連枠で、数字の条件はないらしい。

「お隣、よろしくお願いします」

「ああ」

藤井さんは瓶を並べ続けた。

10時に開場した。通路を人が流れていく。

「かわいい缶ね。お店はどこにあるの」

「お店はなくて、家で焼いてます。ネットで少しだけ」

「へえ。じゃあ、これ1つ」

客はスマホを出さなかった。財布を出した。

14時。隣のジャムが売り切れた。

「そっちは」

「31です」

「まあ、いいんじゃない」

藤井さんは空の箱をたたみ始めた。それ以上、聞いてこなかった。

結菜の机には、缶が9つ残っていた。

夜、メモを開いた。31缶で、利益は24,800円。出店料と維持費の合計は、31,320円。

マイナス6,520円。

「初めてだし。種まき」

翌日、島田さんからメールが来た。次の大型催事の案内だった。

「出店条件は、フォロワー10,000人以上です」

いまは3,000。7,000人足りない。

7,000人分は、14,800円。迷ったのは、風呂の湯がたまるまでの間だけだった。

決済を済ませて、メモを開く。維持費の欄の月額は、11,000円になっていた。

800で割る。13.75。

缶14個分。毎月14個焼いて、全部ただで配るのと同じだ。

「ここまで買ったのに」

「いま止めたら、前の分が全部むだになる」

結菜はメモを閉じた。


大型催事が終わった翌週の月曜。島田さんから、出店者全員にメールが届いた。

「数字は確認できましたので、集計表をお送りします。来場者アンケートの結果です」

添付の表は2つあった。

上は、フォロワー数の多い順。下は、「SNSを見て来た」人数の多い順。

上の表の一番上に、結菜の名前があった。

ゆなの缶クッキー。10,000。12ブース中の1位。

結菜は上の表だけ、画面を撮った。

下の表へスクロールする。

4位に、隣のジャムがあった。フォロワー300。「SNSを見て来た」は22。

さらに下へ。

12位。ゆなの缶クッキー。10,000。

0。

300人で22人を連れてきたジャムの隣で、10,000人の結菜は1人も連れてこなかった。

毎月缶を買う人は、1人いる。その人は催事には来ていない。表のどこにもいなかった。

メールの下のほうに、お知らせがあった。

「出店者の皆様の数字が上がってきたため、次回枠の条件を、フォロワー15,000人以上に引き上げます」

結菜はその文を、2回読んだ。

10,000の次は、15,000。あと5,000。

結菜は購入ページを開いた。

5,000人分は、10,000円。

1人あたりでいえば、いままででいちばん安かった。