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大人の事情

毎朝「朝ごはん」を上げるのに、本人は駅で菓子パン

見栄約 5 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

平日の駅ホーム、ベンチの端でクリームパンを急いでかじる女性の横で、伏せたスマホが光っている。

この話は

毎朝6時45分に朝食の写真を上げる35歳の歯科医院の受付に、同じ皿を買って真似する後輩ができた。「いつ食べているんですか」と聞かれたら、彼女は何と答えるのか。

日曜の朝5時半に、日下部瑞穂は狭い台所の窓際へ白い丸皿を5枚並べた。

瑞穂は35歳で、みなと通り歯科の受付をしている。この5枚は月曜から金曜まで、毎朝6時45分に「朝ごはん」として投稿される。本人はその時間、まだ寝ている。

窓から斜めに光が入る。

皿の右下に、窓枠の影が細く落ちる。

瑞穂は皿を指2本ぶん左にずらした。毎週ここに置く。ここがいちばんきれいに写る。

リネンのナプキンを敷く。ハンドドリップのポットを画面の端に入れる。置く位置にはテープで印がある。ポットの中身は、ただのお湯だ。

月曜はヨーグルト。火曜は目玉焼き。水曜はフルーツ。木曜はパン。金曜はパンケーキ。

月曜の皿の横には、グラノーラの瓶を置く。手作りということになっている。

目玉焼きは焼きたてをのせて撮る。5枚を撮り終えるころには、白身の端が固くなっている。

スマホを開く。予約投稿の欄に、5枚を順に入れていく。月曜から金曜。時刻は全部、6時45分。

キャプションは、どの日も「朝ごはん」。ほかには何も書かない。

口の中で、いつもの言葉を唱える。

「朝ごはん」としか書いていない。

「今朝」とは、一度も書いていない。

朝ごはんの写真が毎朝上がっているのは、事実だ。

予約完了の文字が出た。

目玉焼きは、昼に自分で食べる。冷めたまま。


平日の瑞穂の朝は、7分しかない。

目覚ましは7時10分。起きるとスマホに通知がたまっている。6時45分の「朝ごはん」に「素敵」が14件。

7時50分、駅のホーム。ベンチの端で、菓子パンの袋を開ける。

クリームパンを7分でかじる。次の電車が来る前に飲み込む。写真は撮らない。

撮りだめには手間がかかる。

日曜の目覚ましは4時50分。皿もナプキンも5枚。洗い物は流しからあふれる。

木曜の皿は、いつも少し困る。

窓際で30分待たせたパンは、角が乾いて反る。アプリで角をなぞって丸く直す。木曜だけ、加工が多い。

日曜の昼。固くなった目玉焼きを、台所で立ったまま食べる。塩をふる。

流しの泡を見ながら、いつもの言い訳を並べる。

平日の朝は光が足りない。湯気も写らない。いい写真は日曜の窓でしか撮れない。

撮りだめは、いい写真への最短の手順だ。

旅行の写真は、3日遅れで上がる。「今日のランチ」は、だいたい昨日のランチだ。みんな盛っている。

自分だけ投稿時刻と食事時刻を揃えるのは、不公平だ。


月曜の昼休み。受付裏の休憩スペースで、後輩の小野寺結がスマホを突き出してきた。

「日下部さん、見てください」

「同じお皿、買っちゃいました」

画面には白い丸皿。トーストが1枚のっている。

「でも全然、日下部さんの感じにならなくて」

「毎朝見てます。ずっと見てます」

「いいじゃない。ちゃんとしてる」

「あと、あのグラノーラ。手作りですよね」

「レシピ、教えてもらえませんか」

瓶の中身は、買った袋から詰め替えたものだ。空いた袋は、戸棚の奥で畳んである。

「え、それって、いつ焼いてるんですか?」

「夜ね。寝る前に」

口が先に動いた。

「160度で、20分」

小野寺は手帳を開いた。丸い字で書きつける。

「160度、20分……夜に焼くなんて、すごいです」

その夜、瑞穂は検索した。グラノーラ、温度。

合っていた。

画面を消す指が、少し軽かった。


水曜の昼休み。小野寺が休憩スペースの長机に、マグカップを置いた。

コーヒーは半分残っている。縁に茶色い輪ができていた。

「日下部さん、聞いてください」

「真似して、今朝5時に起きたんです」

「お皿を並べて、ナプキンを敷いて、撮ってる間にコーヒーが冷めちゃって」

「結局、冷たいまま飲みました」

小野寺は笑っている。目の下に、うっすら影があった。

「日下部さんは、温かいうちにいつ食べてるんですか?」

瑞穂は「えっと」と言った。壁の時計を見る。12時41分。

口の中に、言い訳が順に並ぶ。

「朝ごはん」としか書いていない。
聞かれているのは、書いた言葉ではない。

光は日曜の窓にしかない。
聞かれているのは、光ではない。

みんな盛っている。
聞かれているのは、みんなではない。

「6時……」

言いかけた。

「ですよね。6時台ですよね」

「わたし、毎朝6時45分にスマホを見てるんです。1日も遅れたことないですよね」

「ぴったりなの、本当にすごいです」

6時45分。毎日ぴったり。瑞穂がいつも寝ている時間だ。

小野寺のマグの中で、コーヒーはもう動かない。

言える時刻は、1つしかない。

7時50分。駅のホーム。

言えるわけがなかった。


長机の木目を、瑞穂は見た。

「……日曜に」

「5皿まとめて、撮ってるの」

小野寺が、まばたきを2回した。

瑞穂は待つ。軽蔑の顔が来るはずだった。

来なかった。

「えっ……毎朝作るより、大変じゃないですか」

「5時半から、5皿ぶん、全部ですよね?」

「本物の人だ」

「本物、って」

小野寺は手帳を開いた。「160度、20分」の下に、丸い字で書き足す。
「5時半・5皿」。

「毎朝ふつうに作ってる人だと思ってました。それより、ずっとすごいです」

「来週の日曜、一緒に撮りましょう」

「うちの窓、光いいんです」

断る理由を探す。

光は日曜の窓にしかない。そう言い続けてきたのは、自分だ。

「……うん。お願い」


次の日曜、朝5時半。小野寺のワンルームの窓は、東を向いていた。

白い丸皿が、床に10枚並ぶ。5枚は瑞穂の。5枚は小野寺の。

瑞穂は癖で、皿を指2本ぶん左にずらした。この窓では、影が逆に落ちる。

「ほら、光いいでしょ」

「そうね」

2人のスマホが窓台に並ぶ。予約投稿の欄に、月曜から金曜が2列、埋まっていく。時刻は全部、6時45分。

10皿が、並んだ。

食べる予定の人は、まだいない。