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大人の事情

送別会のチェックリストで、十九行目だけ埋まらない

仕事約 7 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

オフィスの給湯室で休憩する二人の会社員。一人が微笑み、もう一人は疲れた表情でコーヒーを手にしている。

この話は

食品卸会社の総務係、36歳の男が、10回目の送別会の幹事を引き受けた。求人を保存するだけで応募はしない彼は、いったい何を待っているのか。

目次(5 章)
  1. 1十回目の送別会の予約
  2. 2保存だけの求人
  3. 3送られる側の先輩と打ち合わせ
  4. 4課長から来期の話
  5. 5送別会のあとで、リストを渡す

十回目の送別会の予約

「送別会は三宅さんに任せれば間違いない」と、北陵フーズ販売の総務では言われている。三宅雄大は36歳で、幹事はこれまで9回やった。

来月で10回目になる。予約の画面の隣には、転職サイトのタブが開いている。

火曜の午後2時。三宅は総務課の席で、受話器を耳に当てている。

「お電話ありがとうございます。炭焼 たまりです」

「北陵フーズ販売の三宅です。11月20日の金曜に、12名でお願いしたいんですが」

「少々お待ちください」

保留音が鳴る。

三宅は右の画面を見た。求人の一覧に「保存済み 14件」と出ている。

応募は0件だ。

「お待たせしました。18時半から、掘りごたつの個室が取れます。お名前をお願いします」

「総務の三宅で」

「ミヤケ様……あ、何度もご利用いただいてますね」

「ええ、まあ」

予約の名前は、いつも幹事の自分の名前だ。主役の名前で取ったことは一度もない。

電話を切って、手元のチェックリストに印を入れた。「1 店の予約」。

項目は全部で18ある。人数確認、アレルギー、乾杯の人、色紙、会費、領収書。

19行目だけ、「(本人)」と打ったまま右が空いている。

主役が自分で書く行のつもりで作った。誰かが書いたことは、一度もない。

三宅は、その行を消していない。

「三宅さん、10回目なんですよね」

コピー機の前から、瀬川ひなたが顔を出した。入社2年目の後輩だ。

「三宅さんに任せれば間違いないって、みんな言ってますよ」

「ありがとう」

「この予約メモ、コピーしていいですか。次の幹事、わたしも覚えたくて」

「いいよ」

三宅はマウスを動かして、転職サイトの画面を後ろに回した。

消える前に、数字が見えた。14。

応募は、0のままだ。

保存だけの求人

三宅には、自分で決めたルールがある。

求人は、見つけたら保存する。応募はしない。

送別会の準備がある月は、辞めるかどうかを判断しない。

月末の夜に、保存した求人を見直す。スマホのメモに、専用の欄も作った。

先月の欄には「継続」と書いてある。

その前の月も「継続」。その前も、その前も「継続」。

三宅は、辞めたいとは一度も言っていない。

考えているだけだ。応募もしていない。保存しただけだ。

言っていないのだから、辞めたがっていることにはならない。

見直しの欄は、思いつきで動かないための工夫だ。手間は惜しんでいない。罫線まで引いた。

人を送るときは、誰でも一度は自分のことを考える。幹事が迷うのも、普通のこと。

それでも会は、毎回ちゃんと回している。

だから、誰も損をしていない。


昼休み。三宅は共有の予約シートを開いた。

送別会の台帳だ。日付と店と人数が、行ごとに並んでいる。

異動。定年。育休入り。異動。退職。

下へスクロールして、何も入っていない月を探す。

なかなか見つからない。

三宅は探すのをやめた。数えなくても、会は回る。

「三宅さん、12月も入ってますね。来年の1月も」

「定年の人がいるから」

「休みなしじゃないですか」

「誰かがやらないと」

「じゃあ次は、見学させてください。予約の電話とか」

「藤堂さんの会が終わったらね」

瀬川は「はい」と言って、席に戻った。

三宅はシートの隅に、小さく打ち込んだ。「見学 瀬川」。


10月31日の夜。月末だ。

三宅は保存した14件を、1件ずつ開いて、閉じた。

メモの欄に、「継続」と書く。送別会の準備は、藤堂の分がまだ残っている。

ルールは、きちんと守られた。

送られる側の先輩と打ち合わせ

11月の第1週。小さい会議室に、藤堂修が缶コーヒーを持って入ってきた。

営業課の先輩で41歳。同業の別会社に移る。今回の送別会の主役だ。

「悪いな。主役が打ち合わせに来て」

「いえ。店は『たまり』です。掘りごたつの個室を取りました」

「座れるのか。助かる。立ちっぱなしは膝にくるんだ」

「挨拶は、どうしますか」

「短くしたい」

「1分半でどうでしょう」

「それでいい」

藤堂は缶を開けた。細かい注文は、何も出てこない。

「乾杯は営業部長に頼んであります。30秒でお願いしますと、先に伝えました」

「あの人に30秒って言ったのか。お前、強いな」

「強くはないです」

三宅は封筒から色紙を出した。

「書く人より、1人分多く余白を残してあります」

「多くないか」

「あとから書きたくなる人が、必ず出るので」

「ああ、いるな。そういうやつ」

藤堂は笑って、色紙の左下を指で押さえた。

「決めたら楽だぞ」

急に言った。

「決めるまでの2年が、一番高かった」

「高い、ですか」

「時間も、気持ちもな。夜中に求人を見て、朝には消す。それを2年」

「三宅は?」

「今は藤堂さんの会で、頭がいっぱいで」

「そうか」

藤堂は、それ以上は聞かなかった。

「最終日は20日だ。決めたら、あとは日付だけだ」

「はい」

「座れる店で、挨拶は短く。お前の段取りなら、安心して送られる」

藤堂は缶を持って席を立った。振り返らなかった。

三宅は議事メモを見た。「座敷」「1分半」「乾杯30秒」。

「2年」とは、書いていない。

課長から来期の話

翌週の月曜、昼休み。三宅が弁当の蓋を開けたところに、辻正人課長が来た。

総務課長で53歳。三宅の席の横に、椅子を引いて座る。

「三宅くんの段取りには、いつも助けられてるよ」

「ありがとうございます」

「藤堂くんの会も、もう店まで決まってるんだって?」

「はい」

「さすがだな。ところで来期なんだが、課長代理をやらないか」

箸が止まった。

「年収は、36万円ほど上がる。悪い話じゃないから」

「自分で、いいんですか」

「君しかいない。送別会だって、代理になれば正式に総務の仕事として入れられる。今までは善意でやってもらってたからね」

善意。9年分の。

「返事は年内でいいから。ゆっくり考えて」

辻は満足そうに戻っていった。卵焼きは、冷めていた。

課長代理になれば、送別会の仕切りは正式に自分の仕事になる。


夜。三宅は自宅の机で、ノートパソコンを開いた。

保存した14件のうち、一番条件のいい求人を出す。

同じ食品の流通で、年収は今より60万円ほど下がる。残業は月に10時間ほど減る。

スマホの電卓を叩く。

残れば36万円上がる。出れば60万円下がる。差は96万円。

10時間の残業が減っても、96万円は埋まらない。

でも、10時間は欲しい気もする。

数字だけなら、残るほうが得だ。

ただ、課長代理の10時間が、今の10時間で済むとは限らない。

どちらに倒しても、決め手にならない。

「応募する」のボタンの上に、カーソルを置いた。

秒を数える。40秒でやめた。

何も押さずに、画面を閉じた。

送別会のあとで、リストを渡す

11月20日、金曜。18時半。炭焼 たまりの奥の個室は、12人でちょうど埋まった。

掘りごたつだから、誰も膝を痛めない。

営業部長の乾杯は、34秒だった。三宅は腕時計を見て、小さくうなずいた。

藤堂の挨拶は、1分20秒。

「いい会だな。三宅に任せれば間違いない」

誰が言ったのかは、分からない。何度も聞いた台詞だ。

色紙は回って、12人が書いた。

遅れて来た経理の人が、最後に余白へ書いた。1人分、ぴったり足りた。

三宅は端の席から、一度も深く座らなかった。追加の注文。会費の集金。精算。

21時。会計は予算の中に収まった。


「ありがとな。座れて、短くて、いい会だった」

「お疲れさまでした」

藤堂は色紙を抱えて、二次会の列に混ざっていった。

歩道に、三宅と瀬川が残った。

「三宅さん。次の幹事のために、チェックリストをコピーしていいですか」

三宅はクリアファイルから、印刷した紙を出した。街灯の下で、瀬川が読む。

「1、2……18。あれ、19行目、空いてますよ」

「そこは本人」

「本人?」

「主役が自分で書く行。誰も書かないけど」

瀬川は紙を見て、少し考えた。

「じゃあ三宅さんの時は、わたしが幹事をやります。何から決めればいいですか」

三宅の口が、先に動いた。

「店は、たまり。奥の個室。乾杯は辻課長で、30秒。色紙は、人数より1人分多く……」

そこで止まった。

「もう、ほとんど決まってるじゃないですか。あとは日付だけですか」

「まだ先だよ」

瀬川は「はーい」と言って、紙を受け取った。


帰宅して、三宅は新しいシートを作った。

19行目の担当欄に、カーソルを置く。

「三宅」と打った。

他の人に任せたら、乾杯が長くなる。挨拶は立ちになる。色紙の余白も、たぶん足りない。

一番上の「主役」の欄は、空けておいた。

日付の欄も、空けておいた。

予約の電話で言うことは、もう決まっている。

「総務の三宅で」

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