この話は
52歳の営業課長が、26歳の部下に毎晩「反省を三つ書いて」と送り、その時刻をノートに記録している。一度も怒鳴っていないというこのやり方は、指導と呼べるのか。
朝礼で誤字を読ませる
俺の引き出しには大学ノートが一冊入っている。
表紙には「育成記録」と書いた。
大塚浩二、52歳。北斗ロジサービスの営業課長で、26歳の部下に毎晩「反省を三つ書いて」と送っている。
怒鳴ったことは一度もない。
ノートは41ページ目まで埋まった。
書いてあるのは日付と時刻。それと、部下が送ってくる「すみません」の回数だ。
思いつきで叱らないための工夫だ。
感情で動かない。記録に従う。
その朝、小川蓮の見積書に誤りがあった。
納品日が「11月8日」になっていた。正しくは18日だ。
1の字が抜けただけ。このままだと、取引先に10日早く荷物が着く約束になる。
朝礼のあと、俺は小川を席に立たせた。
フロアには課の全員がいる。
「小川。見積書の3行目を読んでくれ」
「……はい」
「声に出して。納品日のところから」
「11月8日、です」
「正しくは」
「18日です。すみません」
キーボードの音が止まった。
俺は声を荒げていない。
荒げる必要がない。本人に読ませれば、間違いは本人に届く。
隣の席の川井が立ち上がった。
「コーヒー入れてきます」と言って、そのまま20分戻らなかった。
俺は小川を呼んだ。
「理由を三つ、今夜中に書いてくれ」
「三つ、ですか」
「頼んでるだけだ。命令じゃない」
「……すみません。書きます」
席に戻って、ノートを開いた。
9時12分。朝礼で読み上げ。すみません、2回。
ペン先がなめらかに走る。
今日も、ちゃんとやっている。
夜十時のメッセージ
21時40分に、スマホを見た。
返信はない。
俺は「まだ?」と送った。
22時10分。やはり来ない。
「三つで足りる?」と送った。
足りるかどうか、聞いてやっただけだ。
夜に送るのも、気にかけているからだ。
22時52分に返信が来た。
「すみません、三つ書きました」
1つ目。納品日を目で見直しませんでした。
2つ目。前の日の残業で、頭が回っていませんでした。
3つ目。提出前に、誰にも確認を頼みませんでした。
よく書けている。
俺は「次から気をつけて」とだけ返した。
それからノートを開いた。
21:40「まだ?」。22:10「三つで足りる?」。22:52 返信。
冒頭は「すみません」。
待ったのは俺のほうだ。
だが怒ってはいない。そう書いた。
最後に「すみません ×7」と書き足した。
先週の水曜は ×11 だった。減っている。
小川の返信は、毎回「すみません」で始まる。
礼儀が身についてきた証拠だ。成長の目安にしている。
翌朝、小川の席の前を通った。
引き出しが半分開いていた。
何も入っていない。
ペン一本、付箋一枚ない。
「きれいにしてるな」
「……すみません」
褒めたのに謝る。
まだ少し固い。もう少しだ。
日曜の夕飯で話す
日曜の夕飯は唐揚げだった。
妻の久美子と、実家に戻った娘の彩花が座っている。
食卓で「今日の指導」を話すのは、俺の習慣だ。
家族にも仕事の中身を知っておいてほしい。
「先週な、小川がまた見積を間違えた」
「そう」
俺は朝礼で読ませたことを話した。
夜に三つ書かせたことも話した。
「怒鳴ってない。手も出してない。理由を書いてくれと頼んだだけだ」
「そう」
俺は味噌汁を一口飲んだ。
「俺が入社したころは違った。28のとき、課長にバインダーで頭を殴られた。角でだ」
「ふうん」
「血が出た。それでも次の朝は定時に出た」
彩花が箸を置いた。
皿には唐揚げが2つ残っている。腹がいっぱいなのだろう。
「それに比べたら俺は優しいほうだ」
結果も出ている。
見積ミスは、先月が12件。今月は5件だ。
この数字は表にして、毎週金曜に部長へ出している。
部長は先週、表を見て「ほう」と言った。
「誰も損してない。小川も伸びてる」
久美子は何も言わず、急須にお湯を足した。
相づちは何でもいい。聞いていてくれれば十分だ。
彩花は唐揚げを見たまま、口を開きかけた。
結局、お茶をすすっただけだった。
娘が言った「三つ」
食後、彩花がテーブルに残った。
お茶の湯のみを両手で回している。
「お父さん」
「ん」
彩花はすぐには続けなかった。
俺は数えた。11秒だった。
「わたしの課長もね。『理由を三つ書いて』って言うの」
「ほう」
「夜に送ってくる。11時とか」
彩花は湯のみを置いた。
「それって、普通なのかな」
俺はすぐ答えた。
迷う話ではない。
「期待されてる証拠だ。課長は育てたいんだ」
「……そうなのかな」
「三つ書けるうちは伸びる。見放されたら、何も言われなくなる」
「お父さんの話を聞いて、普通だと思ってた」
「普通だ」
彩花は下を向いて、小さく2回頷いた。
小川が俺の前で頷くのと、同じ頷き方だった。
伝わった。
娘に、課長の気持ちが伝わった。
台所で水の音が止まった。
久美子は蛇口を閉めただけだ。
月曜の朝、席に着くとすぐ声をかけられた。
人事課の堀美咲だった。
「大塚課長。ヒアリングのお時間をいただきたいのですが」
「ヒアリング」
「今日の15時に、小さい会議室でお願いします」
部長に出した表だ、と思った。
見積ミスを半分以下にした課長の話を、人事が聞きたいのだろう。
俺はネクタイを締め直した。
ヒアリングの会議室
小さい会議室には、机と椅子が4脚あるだけだった。
堀は書類のファイルとペンを机に並べていた。
「お忙しいところありがとうございます。指導の状況を、事実の確認として伺います」
「育成の話ですね。喜んで」
「10月に入ってから、小川さんに夜間の連絡をされていますか」
「毎晩です」
「時刻を教えていただけますか」
聞かれて嬉しかった。
俺は時刻を全部言える。
「先週の火曜は21時40分と22時10分に送りました。返信は22時52分です」
「22時52分」
「冒頭は『すみません』でした」
堀はペンを走らせた。
動きが止まったのは、その一行のあとだった。
「大声を出されたことは」
「怒鳴ったことは一度もありません」
「朝礼で、誤りを読み上げさせたことは」
「あります。本人に自覚させるためです」
「その日、小川さんが謝った回数を、ご存じですか」
「7回です」
堀は顔を上げた。
俺は胸を張った。数えているのは、俺しかいないのだ。
「記録はありますか」
待っていた質問だった。
俺は鞄から大学ノートを出して、机の上に置いた。
「育成記録です。10月6日から、毎日つけています」
堀はページを開いた。
1枚、また1枚。指でなぞって、時刻の列を追っていく。
21:40。22:10。22:52。
日付が変わっても、同じ並びが続く。土日にも空白はない。
「反省の件数も、書いてあるんですね」
「毎回三つです。すみません、の回数も」
「……これは、いちばん分かりやすい資料です」
堀は表紙に手を置いた。
「お借りしてもいいですか」
「どうぞ。コピーでなく原本でいい。字も丁寧に書いてありますから」
堀はノートを両手で受け取った。
「育成記録」の文字が、ファイルの一番上に載った。
「ありがとうございました」
礼を言ったのは俺のほうだった。
頭も下げた。
俺は、褒められたのだと思った。



