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大人の事情

「その時計の人なら、まだ下がりますよね」と言われた営業

見栄約 5 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

窓辺のカフェで袖口を整えながら窓に目をやる男性と、向かいで穏やかに話す同僚

この話は

四十代のリフォーム営業が、成績を上げたくて168万円の腕時計を60回払いで買った。商談の席で、その時計は客に何を信用させたのだろうか。

「営業は靴と時計で決まる」と、会社の先輩はよく言う。

三浦慎一は42歳。住宅リフォーム会社「あおば住まいの工房」の営業課主任で、今月も成績表は下から二番目だった。その帰りに、168万円の腕時計を60回払いで買った。

その日の朝、事務所の壁に成績表が貼られた。

三浦の名前は、下から読むとすぐ見つかる。

吉田の名前は、三浦の二つ上にあった。先月までは三浦の下にいた後輩だ。

「三浦さん、お疲れさまです。来月は巻き返しですね」

「だな」

三浦は笑って返した。成績表の端に目をやる。歩合の計算式が、小さい字で印刷されている。

入社以来、一度も読み返していない。


夕方、駅前の百貨店に寄った。時計売り場のガラスケースの前で、足が止まる。

「お手に取ってみますか」

革のバンドが冷たい。留め具がかちりと鳴った。

「営業のお仕事でしたら、商談で見られますよ」

「やっぱり、見られますか」

「ええ。袖口から、ちらっと」

三浦は自分の靴を見下ろした。今朝も磨いてきた。

靴と時計は、大工の金づちと同じ道具だ。贅沢ではなく投資だ。

値札は168万円。店員が端末で分割の回数を見せた。12回。24回。36回。60回。

60回の下に数字が出た。月々34,000円。

三浦は、その数字だけを見た。

画面の下に、小さい字の欄がある。そこは見ない。

3万4千円なら、飲み代を減らせば足りる。時計で信用が取れれば、値引きをしなくても決まる。安売りをしないための買い物だ。

三つ目の理屈まで済んだところで、ペンを持った。

「60回で」

「ありがとうございます。長いお付き合いになりますね」


袖口の練習は、洗面所の鏡の前でやった。

シャツは仕立て直しに出した。袖を3センチ詰めてある。腕を伸ばすと、時計が顔を出す。

手を下ろすと隠れる。名刺を渡す手なら、ちょうど見える。

三浦は鏡の前で、名刺入れを差し出す動きを20回やった。

初めて着けた朝、出社すると吉田が手首を見た。

一瞬だった。口が開いて、閉じた。

「今日、風強いですね」

「そうか?」

三浦は袖を引いた。時計が隠れる。すぐに少しだけ戻した。


橋本悦子の家は、駅から歩いて6分。築30年の戸建てだ。

駅近で飲食店を3店舗やっている。全面改修なら、800万円を超える大口だった。

応接間のテーブルに、見積書が3つ並んでいた。

1つは三浦のもの。残り2つは、大手の封筒に入っている。

「どうぞお座りください。時間は取ってありますから」

橋本は一枚ずつ指で押さえて、数字を読み上げる。

「解体と下地で、この金額ね。足場は別ですか」

「含んでおります」

「含む。分かりました」

手帳に書く字が細かい。

茶を置こうとして、橋本の手が止まった。三浦の手首を見ている。

「いい時計ね」

「恐れ入ります」

「そんなに儲かっている会社なの」

三浦は胸を張った。

「ええ、まあ」

言いながら袖を引く。控えめに見せたつもりだった。褒められたのだと思った。

橋本は何も言わずに、手帳に一行書き足した。

帰りの車で、三浦は袖を引いた回数を数えた。7回。

橋本が時計を見た回数は、数えていない。


最終の見積もりを出す日、橋本はまた大手の封筒を横に置いた。

三浦の見積書は966万円。

「もう一度、数字を確認させて」

一つずつ読み上げる。三浦は背筋を伸ばして答える。袖が上がって、時計が出た。

橋本の目が、そこで止まった。長くはない。確かめるような目だった。

「その時計の人なら」

「そこ、まだ下がりますよね」

三浦は口を開けた。

儲かっている会社の主任は、ここで首を横に振らない。三浦はそう思った。

「……部長に、確認します」


事務所に戻って、大野部長の席の前に立った。

「数字を見せて」

部長は見積書を見て、電卓を叩いた。声が低くなる。

「粗利、どこまで落とせる」

「12パーセントです。大手2社も出ています」

「12か」

部長は電卓を見たまま、しばらく黙った。

「基準ぎりぎりだぞ。受注額は欲しいがな」

判子の音がした。

翌日、三浦は850万円の見積書を橋本の前に置いた。

橋本はうなずいて手帳を開いた。966万円の数字に二重線を引く。横に850と書き直した。

「ありがとう。納得しました」

少し楽しそうな顔だった。


月初の朝礼で、三浦は表彰された。

「月間受注額 第1位」と書かれた紙を、部長が読み上げる。

書いてあるのは受注額だけだった。粗利は、どこにもない。

拍手の中で、三浦は紙を受け取った。袖口から時計が出た。今度は引かなかった。

吉田が拍手をしながら、また一瞬だけ手首を見た。


給与明細は、月末にスマホに届く。

歩合の欄を開いた。

29,000円。

時計の月額より、5千円少ない。

成績表の端の小さい字を、三浦はそのとき初めて読んだ。歩合は受注額ではなく、粗利にかかる。

同じ日に、ローンのアプリから通知が来た。

「今月のお引き落とし 34,000円」

その下に、見たことのない行があった。「お支払い総額 2,040,000円」

168万円ではなかった。差の36万円は、ずっと小さい字の欄にいた。

残りの回数も、その下に出ていた。

三浦はスマホを伏せた。飲み代はもう減らしてある。


橋本から紹介が来た。知り合いの経営者が、水回りを直したいという。

初商談の朝、三浦は洗面所で時計を外した。

手首の、そこだけ少し白い。

鞄の内ポケットに入れて、ファスナーを閉めた。外しておけば、余裕があるとは思われない。

応接間で、紹介客の田島が名刺を受け取った。

靴は磨いてある。袖は、引く必要がなかった。

「橋本さんから聞いてますよ」

「今日は、あの時計はしてこないんですか」

三浦は黙った。

膝の横で、鞄の内ポケットが重い。

残りは55回。

結び

店員は「見られますよ」としか言っていない。嘘をついた人は、どこにもいない。