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大人の事情

家事代行の火曜、よその夫婦の付箋を数える

恋愛約 7 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

冷蔵庫の扉の前で、黄色い付箋を避けるように布を滑らせ、口元だけで笑うエプロン姿の女性

この話は

家事代行のパートで火曜に通う家の冷蔵庫に、夫婦の付箋が貼ってある。毎週それを読んで「うちは毎日話している」と思う47歳の女性は、自分の家で最後にまともに話したのがいつか、答えられるのか。

目次(7 章)
  1. 1火曜の新田さん宅
  2. 2付箋を読んでしまう
  3. 3休憩室で話す
  4. 4金曜に話したいこと
  5. 5缶いっぱいの付箋
  6. 6帰りの電車で数える
  7. 7うちの冷蔵庫

火曜の新田さん宅

川原久美子は47歳。火曜の午前は、家事代行のパートで新田さん宅の台所に立つ。

冷蔵庫の扉には、付箋が三枚。住んでいるのは夫婦二人なのに、会話はそこで済んでいる。

鍵は「ことり家事サポート」から預かっている。夫婦は共働きで、昼まで家には誰もいない。

久美子はエプロンを締めた。作り置きは三品。煮物とおひたしと卵焼きだ。

まず冷蔵庫を開ける。中身の確認は仕事のうちだ。

扉の付箋は、開ける前から目に入った。

黄色が縦に三枚。

「牛乳なかった」

「買った」

「ありがとう」

一枚目は細い字。二枚目は角ばった字。三枚目はまた細い字。

入社の研修で、講師は言っていた。

「お客様の貼り紙は、読まないでください」

久美子は大きくうなずいた。メモまで取った。

読んでいない。見えるだけだ。

三枚見るのに、2秒もかからなかった。

牛乳を買ったのは夫らしい。ありがとうを書いたのは妻らしい。

同じ家にいるのに、声で言えば済む話だ。

久美子は煮物の鍋を火にかけた。うちは違う、と思った。


夕方に帰ると、玄関の靴がいつもの向きで揃っていた。つま先が外を向いている。

夫の達也は電気設備の保守点検で、夜勤明けの日が多い。寝室のドアは半分だけ開いていた。

「ただいま」

「……おう」

ほら、と久美子は思った。

声がある。

うちの冷蔵庫の扉では、町内会のごみカレンダーと病院のカレンダーがマグネットごと重なっている。久美子はそれを見ずに、麦茶を出した。

付箋を読んでしまう

週が進むと、付箋は増えた。

妻の字は細くて丸い。ずっと丁寧語だ。

「スープあります」

「お先に寝ます」

「燃えるごみは出しました」

夫の返事は、角ばった字で一つしかない。

「了解」

久美子は紙の位置を絶対に動かさなかった。拭くときも、そっと避ける。

作業報告書の冷蔵庫の欄には「異常なし」とだけ書く。付箋のことは書かない。

守ることは守っている。手間も惜しんでいない。

これが仕事の慎みというものだと、久美子は思っていた。

先週の「了解」は二枚。今週は三枚。

数えようと思って数えたのではない。数が、勝手に頭に入る。

冷たい夫婦だ。

久美子の中で、それはもう決まっていた。


家に帰ると、台所の調理台に薬局の白い袋があった。口が二回折ってある。

久美子はそれを端に寄せて、まな板を置いた。

達也が起きてきた。寝ぐせのまま、冷蔵庫の前に立つ。

「ご飯は?」

「いい、いい」

達也は麦茶だけ飲んで、また寝室に戻った。

久美子は包丁を持ったまま、少し考えた。

新田さんの家なら、あれは「了解」の部類だ。

でもうちは声がある。ご飯は、と聞いた。返事もあった。

数えなくても分かる。毎日話しているのだから。

休憩室で話す

事務所の休憩室には、安いチョコとポットがある。

先輩の小松澄江が、袋を開けて久美子にも一つ回した。

「新田さんのお宅なんですけど」

「うん」

「ご夫婦、付箋で話してるんです」

小松は笑った。

「お客さんの冷蔵庫は見ないのがコツよ」

そう言ったのに、椅子ごと久美子のほうへ寄ってきた。

「で、旦那さんは何て書くの」

「了解、だけです」

「うわ」

「毎週増えるんですよ。了解が」

「数えてるの?」

「見えるだけです。読んでません」

小松は「ふうん」と言って、チョコの包みを指で丸めた。

「うちはまあ、毎日声で話しますから。貼る必要がないんで」

「いいわねえ。うちなんか、声で言っても通じないわよ」

小松は笑って流した。久美子も笑った。

笑いながら、久美子は少しだけ背筋を伸ばした。


その夜、久美子はソファでテレビを見ていた。クイズ番組の途中だった。

達也が風呂上がりに、横のスツールに座った。

「あのさ」

「あとで。いまテレビ」

達也は口を少し開けたまま、閉じた。

「……うん」

久美子は、CMのあいだも画面を見ていた。

「あとで」は、その夜は来なかった。

金曜に話したいこと

11月の火曜。新田さんの冷蔵庫に、新しい付箋があった。

細くて丸い字だった。

「金曜、話したいことがあります。」

その下に、角ばった字。

「了解。早く帰る」

久美子は、冷蔵庫の扉を開けたまま止まった。

今までの付箋とは違う。丁寧語の最後に、句点がある。

話したいこと。

離婚だろうか。それとも、どちらかに隠し事があるのか。

夫の「早く帰る」は、いつもの了解より一文字ぶん多い。それが逆に、怖い。

久美子は雑巾を絞り直した。

扉のまわりを、いつもより念入りに拭いた。

黄色い紙のところだけは、指一本ぶん避けて。

触らない。動かさない。書かない。

心配だった。本当に、心配だった。

次の火曜が待ち遠しいくらいに。


帰り道で、久美子は鼻歌を歌っていた。

夕飯は鯖の味噌煮にした。達也のぶんも作った。

達也は夜勤の支度をしながら、台所の入口で一度だけ振り向いた。

何か言いたそうな顔だった。久美子は鍋の蓋を取って、先に言った。

「ご飯は?」

「いい、いい」

達也は鍵を持って出ていった。

久美子は味噌煮を一人で食べながら、金曜のことを考えた。

新田さんの家のことを、だ。

缶いっぱいの付箋

次の火曜、玄関を開けたのは妻の理沙だった。

「川原さんですよね。今日は有給を取ったので」

穏やかな丁寧語だった。久美子は頭を下げて、靴を脱いだ。

台所に入る。まっすぐ冷蔵庫を見た。

扉は空っぽだった。

マグネットが一つ、ぽつんと残っている。紙は一枚もない。

「お茶、いれますね。少しだけ、いいですか」

断る理由は、仕事の中には見つからなかった。

食器棚の上に、四角いクッキー缶があった。蓋のすき間から、黄色い紙の端がのぞいている。

理沙は、久美子の視線に気づいた。

「付箋です。結婚してから、全部」

缶を開けて見せてくれた。日付順に、きっちり重なっていた。

「紙のほうが、残るので」

久美子は湯のみを持ったまま、うなずいた。

「金曜の話は、主人の転勤でした。来年の春に内示が出るそうで」

「……行かれるんですか」

「それを、決めるんです。金曜に3時間かけて」

理沙は少し笑って、お茶をすすった。

「口だと、二人とも『どっちでもいい』って言っちゃうんです。紙には書けないんですよ、それは」

だから、話す日だけを紙に書く。

話すのは、声で。残したいことだけ、紙に残す。

久美子は冷蔵庫の扉を見た。あの三枚の紙が、ほかの意味を持ち始めていた。

「川原さんのところは、ご主人と話します?」

理沙は返事を待った。半拍、静かに待った。

「毎日話しますよ」

考える前に、口が動いていた。

「そうですか。いいですね」

理沙はそれ以上、聞かなかった。

何を話しているのかは、久美子にも出てこなかった。

帰りの電車で数える

帰りの電車は空いていた。久美子は座席の端に座った。

数えるのは得意だ。

今週の分を、頭の中で並べてみた。

月曜。「ご飯は?」「いい」。

火曜の朝。「今日遅い?」「うん」。

水曜。「ごみ、出した?」「出した」。

木曜。「寝る?」「うん」。

金曜。「ご飯は?」「いい、いい」。

数えたら、11回あった。

どれも3語以内。

新田さんの了解よりは、多い。久美子はそう思おうとした。

でも向こうは話す日を決めて、3時間かけたのだ。

電車が揺れた。

3週間前の夜を、久美子は思い出した。

「あのさ」と達也は言った。

「あとで。いまテレビ」と自分は言った。

達也はそのあと、何も続けなかった。

何を言おうとしたのか。久美子は知らない。

聞いたこともなかった。

たまたま忙しい週だったのかもしれない。夜勤も続いたし。

そう考えると、少し楽になった。

最寄り駅の名前が、アナウンスで流れた。

久美子は立ち上がった。数は、まだ頭の中に残っていた。

うちの冷蔵庫

夕方、達也は休みでソファにいた。

テレビはバラエティ番組。台所からは6メートルほど離れている。

久美子は麦茶を取ろうと、冷蔵庫を開けた。

ごみカレンダーの角が、少しめくれている。いつの間にか、上から重なっていたらしい。

その下に、黄色いものが見えた。

付箋の端だった。

カレンダーの角を、そっと持ち上げる。

角ばった字で、短く書いてあった。

「話せる日があったら教えて。急ぎじゃない」

隅に、日付がある。

3週間前。「あとで」と言った夜の、翌日だった。

何の話なのかは、どこにも書いていない。

久美子は、ずっとこの扉の前に立っていた。

毎朝。毎晩。麦茶を取るたびに。

重なったカレンダーの角を、一度も持ち上げなかった。

ソファのほうで、達也が笑った。テレビの音と一緒に。

久美子は冷蔵庫の側面を見た。

ペン付きのマグネットが、ずっとそこに付いていた。一度も使ったことがない。

ペンを外す。付箋を一枚はがす。

声で言えばいい、と思った。「ねえ、話せるよ」と。

6メートル歩けば済む。

久美子は、付箋に向き直った。

書いたのは、二文字だった。

「了解」

新田浩一と同じ二文字だ。

それを、達也の付箋の下に貼った。

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