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大人の事情

夫の鞄の底にあった、使われていない黒いスマホ

恋愛約 9 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

金曜の夜、玄関の棚で黒いスマホの充電器を確かめる女性。風呂場の灯りが廊下に漏れ、ガラス戸に夫の影。

この話は

42歳のパート店員が、夫の鞄の底から使われていない黒いスマホを見つけた。問い詰めずに「確認」だけを続ける彼女は、何を確かめたいのか。

目次(6 章)
  1. 1鞄の底の黒いスマホ
  2. 2毎週金曜の充電器
  3. 3土曜の駐車場で
  4. 4同じ土曜、夫の側から
  5. 5日曜の夕食で
  6. 6テーブルの上のスマホ

鞄の底の黒いスマホ

「村瀬さんのとこは、旦那さん優しいでしょう」

パート先のレジで、先輩にそう言われた。千鶴は42歳。ドラッグストアに勤めている。「そうですね」と笑って返した。

その夜、夫の通勤鞄の底から、見たことのない黒いスマホが出てきた。

金曜の夜だった。剛は風呂に入っている。

千鶴は玄関で、弁当箱を出そうとしただけだった。

鞄の底に、固いものが当たった。

安そうな黒いスマホ。ケースはない。割れも傷もない。使い込んだ感じもしない。

横のボタンを押すと、ロック画面が光った。通知はなく、時計だけが出た。

千鶴は暗証番号を試さなかった。試すという考えが、浮かばなかった。

スマホを底に戻す。充電ケーブルも、同じ巻き方に戻す。鞄の向きも、壁に対して同じ角度にする。

弁当箱だけ持って、台所へ行った。

剛は最近、「ただいま」が小さい。玄関で聞き返さないと聞こえない。

土曜の朝だけ、早く出かける。風呂上がりには、腰を押さえて「あー」と言う。

千鶴は全部気づいている。数えていないだけだ。

「上がったよ」

剛がタオルで頭を拭きながら出てきた。右手は腰にある。

「何かあった?」

「ううん。お茶いれる」

「いいよ。大丈夫、大丈夫」

剛はそう言って、自分で冷蔵庫から麦茶を出した。

そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。妹の里美だった。

「お姉ちゃん、まだ起きてた? 今日ね、塾の見学行ってきたの」

「うん」

「高いのよ、ほんと。お姉ちゃんのとこは、いいよね」

千鶴は玄関の方を見た。

「うちは大丈夫」

鞄は、さっきと同じ向きで立っていた。

毎週金曜の充電器

千鶴の確認は、金曜の夜と決まっている。

剛が風呂に入っている間だけ。15分で終わらせる。

一台目の剛のスマホは、前から台所の脇で充電している。黒いスマホは、金曜だけ玄関の棚でさす。

土曜に一日持たせたいのだろう、と千鶴は思う。何のために持たせたいのかは、考えない。

やり方は三つ。ケーブルの向きを見る。画面を光らせて、通知が出ていたら自分のスマホで撮る。最後に、元の向きに戻す。

千鶴には言い分がある。

一つ目。「誰なの」と、一度も言っていない。見ただけだ。写真は撮るけれど、夫には見せていない。

二つ目。確認は金曜の風呂の間だけ。元の向きに戻すから、気づかれない。手間は惜しんでいない。

三つ目。ロックは外していない。見えるのは、画面に出る通知だけ。誰も損をしていない。

千鶴はこれを、夫への気遣いだと思っている。信じているから、丁寧にやるのだ。


黒いスマホを見つけて、1週間がたった金曜。

風呂場でシャワーの音がしてから、千鶴は玄関に立った。

棚の奥で、黒いスマホは充電されていた。ケーブルの端子は上向き。

横のボタンを押す。通知が二つ出た。

エミ 次の土曜も来られる?

エミ 今日もありがとう、助かった

千鶴は息を止めた。

助かった。何が。次の土曜も。ということは、先週も。その前も。

3枚撮った。ぶれたので、もう1枚撮った。

ケーブルをさし直す。元の向きのはずだ。指で確かめた。

アルバムの「通知」フォルダは、これで63枚になった。数えるのは得意だ。枚数も、回数も、向きも。

土曜の夜、剛の体から匂いがする日がある。

湿布に似た匂いだった。店で毎日かいでいる匂いだ。

でも家に湿布はない。剛が貼っているのも見たことがない。だから湿布ではない。誰かの香りだ。

千鶴はそれを、知らない香りの4回目として数えた。

玄関の靴の裏には、白い粉がついていた。養生テープの切れ端も。

工事の途中の部屋でもあるのだろうか。エミの家かもしれない。

風呂場のドアが開く音がした。千鶴は急がなかった。いつも、ちょうどに終わる。

台所に戻って、麦茶を二つ入れた。氷は、剛の分だけ多めにした。

土曜の駐車場で

土曜の朝、剛は6時40分に家を出た。

「ちょっと出てくる。夕方には戻るから」

「うん。気をつけて」

玄関のドアが閉まる。息子の悠斗は、さっき部活に出た。

千鶴は水筒に麦茶を入れた。おにぎりを2個にぎった。

ついていくのではない。確認だ。

道が同じ方向なだけ。そう思うことにして、軽自動車のエンジンをかけた。

剛の灰色のワゴンは、国道を40分走った。大きな団地の前で曲がる。

千鶴は駐車場の端に停めた。植え込みの陰で、白いバンの後ろだ。

団地の前には白いトラックが2台。後ろの扉が開いている。

ほかの家の引っ越しだろう。千鶴はそれ以上、見なかった。

見ているのは、剛だけだ。

剛は見たことのない灰色の上着を着ていた。手には厚い手袋。

毛布でくるんだ大きな荷物を、誰かと二人で階段へ運んでいく。

エミの家の荷物だろうか。千鶴は水筒の蓋を閉めた。

3時間たった。おにぎりは食べ終わった。麦茶は半分になった。

昼過ぎに、紺の上着の女の人が現れた。五十代くらい。クリップボードを持っている。

女の人は剛の前に立って、白い封筒を出した。

剛が受け取る。頭を下げる。女の人が何か言って笑い、剛も笑った。

あの人がエミだ。千鶴は決めた。

そのとき、剛が顔を上げた。こちらの方を見る。

千鶴はシートを少し倒した。

剛は首の後ろを掻いた。すぐに目をそらした。

気づかれていない、と千鶴は思った。

封筒は白かった。厚みは見えない。お金だ、と思った。何のお金かは考えなかった。考えると、答えが出てしまう。

スマホを構えて、1枚だけ撮った。遠くて、ぼけた。

消さずに、「通知」フォルダに入れた。64枚目。

エンジンをかけて、剛より先に帰った。

夕飯は、剛の好物にした。豚の角煮。なすの味噌汁。だし巻き卵。

角煮の肉は、全部同じ大きさに切った。

同じ土曜、夫の側から

剛は45歳。食品メーカーの営業だ。

春の配置転換で、営業手当が消えた。月の手取りが、4万円ほど減った。

息子の塾代と、同じ額だった。

千鶴に言おうと決めた夜があった。6月だ。廊下で、千鶴が妹と電話していた。

「うちは大丈夫」

剛はその声を、ドアの前で聞いた。言うきっかけは、そこで消えた。

求人アプリで、土曜だけの仕事を見つけた。あおば引越サービス。引っ越しの補助で、日払い。

1日9,500円。終わると、白い封筒で手渡しされる。4回やれば、ほぼ4万円だ。

腰にくる。階段のソファは特にきつい。車の中で湿布を貼って、帰る前にはがして丸める。匂いだけは取れない。

黒いスマホを買ったのは、夏の終わりだ。

夜中に水を飲みに起きた。居間で、千鶴が自分のスマホを構えていた。

充電中の剛のスマホの画面を、撮っていた。

剛は声をかけなかった。そのまま寝室に戻った。

翌日、4,980円の安いスマホを買った。

求人アプリの通知。引き落としの通知。塾の月謝の案内。全部そっちに移した。

見られて困るのは、女の名前じゃなかった。数字のほうだった。

浮気の疑いなら、否定すれば済む。数字は、否定できない。


土曜の10時すぎ。剛は3階からソファを運んで降りてきた。

駐車場の端に、薄い水色の軽自動車が停まっていた。

ナンバーの末尾は、息子の誕生日だ。

来るかもしれない、と先々週から思っていた。

今日は来ていた。剛は頭の中で、そう数えた。

近づかなかった。手も振らなかった。荷物をまた運んだ。

作業は昼過ぎに終わった。現場担当の日野恵美が、クリップボードを持ってくる。58歳。てきぱきした人で、終わると必ず一人ずつ声をかける。

「今日もありがとう、助かった。3階のソファ、重かったでしょう」

「いえ」

白い封筒を渡される。千円札が9枚と、五百円玉が1枚。剛は頭を下げた。

「次の土曜も来られる?」

「はい。大丈夫、大丈夫です」

答えながら、軽自動車の方を見てしまった。千鶴がシートを倒すのが見えた。

首の後ろを掻いた。嘘をつくときの癖だと、前に千鶴に言われた。

嘘はついていない。何も言っていない。それでも癖が出た。

封筒を内ポケットにしまう。軽自動車は先に出ていった。

剛は車で湿布をはがして丸めてから、家に帰った。

食卓に、角煮が並んでいた。肉の大きさが、全部同じだった。

「どうしたの、これ」

「たまにはね」

「うまい」と言うと、千鶴は「でしょ」と言った。

二人とも、相手の目ではなく、手元を見て食べた。

日曜の夕食で

日曜の夕食は、昨日の角煮の残りだった。

剛と千鶴と、息子の悠斗。三人の食卓は静かだ。

千鶴は箸を置いた。

「最近、土曜はずっと出てるよね」

「……うん」

「仕事?」

「まあ」

エミさんって誰。その言葉を、千鶴は飲み込んだ。

「誰か、いるの」

悠斗の箸が止まった。

「……ごちそうさま」

悠斗は角煮を2つ残して、階段を上がった。部屋のドアが閉まる音がした。

剛はしばらく黙っていた。それから立って、玄関へ行った。

戻ってきたとき、手に黒いスマホがあった。千鶴の前に置く。

「見て」

剛が暗証番号を打つ。画面が開いた。

「エミ」とのやりとり。登録の名前は、もっと長かった。日野恵美。あおば引越サービス、現場担当。

写真も出てきた。白いトラック。階段のソファ。軍手をした剛の手。

「引っ越しの手伝い。日払いなんだ。土曜だけ」

「……どうして」

「4月から手当がなくなって。月に4万くらい、減ってる」

千鶴の肩から、力が抜けた。笑いそうになった。

「なんだ」

声が出た。出てから、口を押さえた。

「言うきっかけがなくてさ。大丈夫、大丈夫。なんとかなってるから」

「そう。よかった」

「知ってたよ」

「え」

「駐車場にも来てたでしょ。水色の」

千鶴の指が止まった。

「ケーブルの向きもさ。毎週、逆なんだよ。戻してくれてるのは分かるけど」

「……逆」

「俺は上向きにさす。千鶴のは下」

元の向きに戻すから、気づかれない。その言い分は、毎週、外れていた。

「撮ってたのも見たよ。夏に、居間で。何枚くらいあるの」

「64枚」

千鶴は答えていた。聞かれて、すぐに。数えているから、すぐに出た。

「そっか。多いな」

テーブルの上のスマホ

翌週から、黒いスマホは食卓の端に置かれた。

画面を上にして。ケーブルはつけたまま。

「隠してないよ。ここに置いてあるから」

「うん」

剛はそれだけ言って、味噌汁をよそった。ごめん、と言う人はいなかった。

金曜の風呂の間、玄関の棚は空になった。千鶴は台所で、洗い物をしている。

通知は、夕食の間にも来る。

画面が光るたび、千鶴は時刻を見る。

19時14分。19時40分。20時2分。

文面は読まない。見えているのに、読まない。読んだら、見たことになる。

剛は気づいている。気づいて、味噌汁を飲む。

土曜の朝、剛は今日も6時40分に出た。

帰ってきたときの「ただいま」は、ほんの少し大きくなった。千鶴はそれを、数えない。

4万円の穴は、まだ埋まっていない。誰もその話をしない。

水曜の夜、里美から電話があった。

「お姉ちゃん、塾決めた? うちはあそこにした」

「そうなんだ」

「高いよー。お姉ちゃんのとこは、いいよね」

千鶴は居間を見た。食卓の端に、黒いスマホがある。

「うちは大丈夫」

居間で、黒いスマホが光った。

千鶴は時刻だけを見た。