この話は
総務課で時短勤務をする35歳の事務員が、月に一度の同僚ランチで3人の自慢話を黙ってスマホに数えている。自分は取らない側だと思っている彼女は、その記録のどこにいるのか。
柏木美穂は35歳。みなと文具販売の総務課で、時短で働いている。
月に一度、同僚3人と駅前のイタリアン「トラットリア・アルカ」で昼を食べる。窓際の奥の席で、メニューの陰にスマホを立てる。三人の自慢を数えるためだ。
打つのは膝の上。親指だけ。
メモには列が三つある。玲奈、志保、あかね。自慢が出るたびに、該当の列へ線を一本足す。
ランチセットは1500円。サラダとパスタと、小さいドリンク。
三人とも、話すときは美穂のほうを向く。奥の席からは、全員の顔がよく見える。
「ここだけの話ね」
川端玲奈が声を落とした。全員が顔を寄せる。
「うちの新築、建物だけで45坪あるの。リビングが20畳」
「へえ、すごい」
美穂はいつもの声で言った。
「でしょ。でも掃除が大変でさ。ほんと、広すぎて困る」
困る、と言いながら玲奈は口の端が上がっている。
美穂は膝の上で「家」の列に線を引いた。
自分は何も言っていない。盛ってもいないし、誰も下げていない。相づちを打っているだけだ。
数えるのは頭の整理のため。誰にも見せないから、誰も傷つかない。
それに美穂は時短で、一番早く席を立つ。張り合う意味がない。最初から土俵に上がっていない。
美穂は、そう思っている。
パスタが来る前に、大庭志保が塾のロゴ入りバッグを椅子の背に掛けた。
「うちはまだ普通なんだけど」
志保はいつも、そう言ってから数字を出す。
「先月の模試で、算数が偏差値64だったの。国語は58。志望校の判定は、Bが2つ」
「へえ、すごい」
美穂は「受験」の列に線を足した。これで6本目になる。
「すごーい。うちは夏にハワイ行ったけど、子どもは日焼けしただけ」
玲奈が紙袋から小分けのクッキーを出して配った。ハワイ土産だという。
配りながら、旅行の話が続く。「旅行」の列も増える。
野々村あかねは、フォークを持ったまま二人を見ていた。
「えー、すごいですー」
入社2年目のあかねは、それしか言わない。
一度だけ、自分の話を始めかけた。「わたしこの前、」と。
「あ、そうそう。ハワイでね」
玲奈が話を取った。あかねは笑ってうなずいた。
あかねの列には、最初の月に1本だけ線がある。その下は、ずっと空いたままだ。
家4。受験6。旅行3。
わかりやすい人たちだ、と美穂は思う。あの人たちは、数字がないと座れない。
自分は違う。何も取っていない。
12時50分。美穂は時計を見て、バッグを持った。
財布から千円札と500円玉を出す。毎回ぴったり。お釣りの出ない形で、テーブルの端に置く。
取らない人は、貸しも借りも作らない。
立ち上がりかけたとき、あかねがグラスを置いた。
「美穂さん」
いつもの語尾を伸ばす声ではなかった。
「メモ、先月も見えてました」
美穂の手が止まった。
あかねの席からは、立てかけたスマホの画面が斜めに見える。先月、美穂は画面をひっくり返さなかった。ひっくり返す必要があると、思っていなかった。
「あ、これは、ただの……」
言葉が続かない。志保が先に笑った。
「いいのよ。柏木さん、聞いてくれるから。つい話しちゃうの」
「ねえ。ここだけの話、美穂さんに話すと落ち着くんだよね」
玲奈がクッキーの袋をたたんだ。
「一番いい席にいるの、美穂さんだよね」
誰も怒っていない。責める声でもない。
美穂はスマホを伏せようとして、手を止めた。
「わたしの欄、ほとんどゼロですよね」
あかねは笑って言った。
「数えてもらえないの、ちょっと寂しいです」
美穂は口を開けた。
へえ、すごい。それしか出てこない。でも、それはもう言えなかった。
置いた千円札と500円玉が、テーブルの端で光っていた。
帰りの電車は空いていた。
美穂はつり革につかまって、メモを開いた。列は三つ。玲奈、志保、あかね。
自分の欄は、どこにもない。
ずっとそうだった。数える側には、数える欄が要らなかった。
スマホが震えた。同僚のグループに、玲奈の文字が出る。
「来月の幹事、美穂さんの番だよ。おすすめのお店でね」
「楽しみですー」
「お願いしますね」
あかねと志保が続けて返してきた。
美穂は店の候補を思い浮かべた。
安い店は選べない。高すぎる店は、張り切って見える。こじゃれた路地裏の店なら、センスの話になる。
どれを選んでも、三人は「へえ、すごい」と言うだろう。
美穂は返信の欄に打った。
「行きます」
送信。すぐに既読が三つ付いた。
美穂はメモに戻った。四つ目の列を作る。
欄に名前だけ打った。数字は、まだ入れられない。



