本文へ移動
大人の事情

「へえ、すごい」と返しながら、同僚ランチの自慢を数える

見栄約 4 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

イタリアンの窓際席、笑顔で相づちを打つ女性の膝の上で、スマホのメモに細い線が増えていく。

この話は

総務課で時短勤務をする35歳の事務員が、月に一度の同僚ランチで3人の自慢話を黙ってスマホに数えている。自分は取らない側だと思っている彼女は、その記録のどこにいるのか。

柏木美穂は35歳。みなと文具販売の総務課で、時短で働いている。

月に一度、同僚3人と駅前のイタリアン「トラットリア・アルカ」で昼を食べる。窓際の奥の席で、メニューの陰にスマホを立てる。三人の自慢を数えるためだ。

打つのは膝の上。親指だけ。

メモには列が三つある。玲奈、志保、あかね。自慢が出るたびに、該当の列へ線を一本足す。

ランチセットは1500円。サラダとパスタと、小さいドリンク。

三人とも、話すときは美穂のほうを向く。奥の席からは、全員の顔がよく見える。

「ここだけの話ね」

川端玲奈が声を落とした。全員が顔を寄せる。

「うちの新築、建物だけで45坪あるの。リビングが20畳」

「へえ、すごい」

美穂はいつもの声で言った。

「でしょ。でも掃除が大変でさ。ほんと、広すぎて困る」

困る、と言いながら玲奈は口の端が上がっている。

美穂は膝の上で「家」の列に線を引いた。

自分は何も言っていない。盛ってもいないし、誰も下げていない。相づちを打っているだけだ。

数えるのは頭の整理のため。誰にも見せないから、誰も傷つかない。

それに美穂は時短で、一番早く席を立つ。張り合う意味がない。最初から土俵に上がっていない。

美穂は、そう思っている。


パスタが来る前に、大庭志保が塾のロゴ入りバッグを椅子の背に掛けた。

「うちはまだ普通なんだけど」

志保はいつも、そう言ってから数字を出す。

「先月の模試で、算数が偏差値64だったの。国語は58。志望校の判定は、Bが2つ」

「へえ、すごい」

美穂は「受験」の列に線を足した。これで6本目になる。

「すごーい。うちは夏にハワイ行ったけど、子どもは日焼けしただけ」

玲奈が紙袋から小分けのクッキーを出して配った。ハワイ土産だという。

配りながら、旅行の話が続く。「旅行」の列も増える。

野々村あかねは、フォークを持ったまま二人を見ていた。

「えー、すごいですー」

入社2年目のあかねは、それしか言わない。

一度だけ、自分の話を始めかけた。「わたしこの前、」と。

「あ、そうそう。ハワイでね」

玲奈が話を取った。あかねは笑ってうなずいた。

あかねの列には、最初の月に1本だけ線がある。その下は、ずっと空いたままだ。

家4。受験6。旅行3。

わかりやすい人たちだ、と美穂は思う。あの人たちは、数字がないと座れない。

自分は違う。何も取っていない。

12時50分。美穂は時計を見て、バッグを持った。

財布から千円札と500円玉を出す。毎回ぴったり。お釣りの出ない形で、テーブルの端に置く。

取らない人は、貸しも借りも作らない。


立ち上がりかけたとき、あかねがグラスを置いた。

「美穂さん」

いつもの語尾を伸ばす声ではなかった。

「メモ、先月も見えてました」

美穂の手が止まった。

あかねの席からは、立てかけたスマホの画面が斜めに見える。先月、美穂は画面をひっくり返さなかった。ひっくり返す必要があると、思っていなかった。

「あ、これは、ただの……」

言葉が続かない。志保が先に笑った。

「いいのよ。柏木さん、聞いてくれるから。つい話しちゃうの」

「ねえ。ここだけの話、美穂さんに話すと落ち着くんだよね」

玲奈がクッキーの袋をたたんだ。

「一番いい席にいるの、美穂さんだよね」

誰も怒っていない。責める声でもない。

美穂はスマホを伏せようとして、手を止めた。

「わたしの欄、ほとんどゼロですよね」

あかねは笑って言った。

「数えてもらえないの、ちょっと寂しいです」

美穂は口を開けた。

へえ、すごい。それしか出てこない。でも、それはもう言えなかった。

置いた千円札と500円玉が、テーブルの端で光っていた。


帰りの電車は空いていた。

美穂はつり革につかまって、メモを開いた。列は三つ。玲奈、志保、あかね。

自分の欄は、どこにもない。

ずっとそうだった。数える側には、数える欄が要らなかった。

スマホが震えた。同僚のグループに、玲奈の文字が出る。

「来月の幹事、美穂さんの番だよ。おすすめのお店でね」

「楽しみですー」

「お願いしますね」

あかねと志保が続けて返してきた。

美穂は店の候補を思い浮かべた。

安い店は選べない。高すぎる店は、張り切って見える。こじゃれた路地裏の店なら、センスの話になる。

どれを選んでも、三人は「へえ、すごい」と言うだろう。

美穂は返信の欄に打った。

「行きます」

送信。すぐに既読が三つ付いた。

美穂はメモに戻った。四つ目の列を作る。

欄に名前だけ打った。数字は、まだ入れられない。