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大人の事情

整形の金額で迷うのに、備考欄は読んだことがない

見栄約 6 分公開 作:X

この物語はフィクションです。語り手・登場人物・団体は架空のもので、実在の人物・団体とは関係ありません。

昼休みの机に三枚の見積書を並べ、赤ペンを持つ手が止まる。通りかかる同僚に紙を隠す。

この話は

31歳の経理事務の女性が、美容クリニックの見積書を三枚並べたまま、決められない日曜の夜を重ねている。決められないのは、本当に金額の差のせいなのか。

目次(5 章)
  1. 1三枚目の見積書をもらう
  2. 2安いほうに決めかける
  3. 3繁忙期と母の電話
  4. 4備考欄を読み返す
  5. 5有効期限の前の夜

三枚目の見積書をもらう

宮下芽衣は31歳で、電機部品商社の経理課にいる。日曜の夜は、台所のテーブルに整形クリニックの見積書を3枚並べている。

3枚とも合計額の下に赤ペンの線がある。決めるために並べたのに、並べるのは今夜で9回目だ。

今日は3件目の無料カウンセリングだった。

1枚目はルミエ美容外科。168,000円。

2枚目はソレイユクリニック。318,000円。

3枚目はアトリエ・ノワ美容皮膚科。342,000円。

芽衣は3枚目の合計の下に、赤ペンで線を引いた。定規は使わない。線は少し右に下がった。

変えたいのは目元だけだ。

会社の誰にも「何かした?」と言われない程度に。それでいい。

1枚目と2枚目の差は15万円。

迷っているのは、きっとこれのせいだ。あと少し情報がそろえば、決められる。

三社見るのは慎重なだけ。家電でも相見積もりは普通にやる。

決めきれないのではなく、見極めている。

見積書の下のほうに、小さい字の備考欄がある。読んだことはない。どうせ注意書きだ。

「ご希望の箇所」の欄だけは手書きで、3枚とも字が違う。カウンセラーが違うのだから当たり前だ。

有効期限は3枚とも今月末。示し合わせたみたいに、同じ日。

芽衣は3枚を重ねて、クリアファイルに入れた。

来週の日曜までには決める。先週も、その前の週も、同じことを思った。

安いほうに決めかける

火曜の昼休み。芽衣は経理課の自分の席で、1枚目の見積書を出した。

ルミエ美容外科。168,000円。いちばん安い。

理由は紙の裏にある。症例写真の掲載に同意する、モニター割引だ。

施術の前と後の写真を、院のサイトと案内に載せる。条件はそれだけ。

「目元のアップだけですから」

あの日、スタッフはそう言った。

目元のアップ。

芽衣は想像する。同じ課の誰かがスマホで見つける。「これ、宮下さんじゃない?」と言う。

アップでも、分かる人には分かる。

同意書の署名欄は空白のままだ。ボールペンを持つ。名字の1画目で、手が止まった。

金額が決まれば決める。芽衣は自分にそう言った。

顔を出して15万円安くなる。顔を出さないなら、ソレイユで15万円多く払う。

差額が大きい。ここは、安いほうの条件がはっきりしてから決めたい。

それに金額は動く。ルミエで最初に聞いたのは12万円ほどだった。紙の上では16万8千円になっている。

向こうがあれこれ足してくる。商売だから仕方ない。見積もりの誤差だ。


おとといの日曜。アトリエ・ノワの相談室。

カウンセラーの西川琴音は、見積書を印刷しながら、画面に何か打ち込んでいた。

「お急ぎではないですよ」

「はい」

「ただ、お見積もりは31日までの有効です。ご希望でしたら、先に仮の日取りだけ押さえることもできます」

「もう少し、考えます」

「はい。お急ぎではないですよ」


昼休みが終わる。

もう一社見てから、とも思った。でも相見積もりは三社までが普通だ。四社目は欲張りに見える。

同意書は署名欄が空白のまま、ファイルの一番うしろに戻った。

繁忙期と母の電話

月末の締めに、決算の準備が重なった。

芽衣は3日続けて21時まで会社にいた。帰ると台所の電気をつけて、まず腫れの日数を調べる。

1枚目のプランは7日。2枚目は10日。3枚目は14日。

目元が2週間腫れたまま出社したら、何と言われるか。

「何かあったの?」と聞かれる。「何かした?」とも聞かれる。

手帳の11月21日から23日に、赤ペンで丸をつけた。3連休だ。

3連休でも14日には足りない。有給をつければ足りる。でも有給は、決算が終わるまで言い出せない。

今は、決める時期ではない。

契約と施術は別だ。それは分かっている。それでも、受ける日の決まらない書類に署名はできない。

日曜の夜、21時すぎに電話が鳴った。母だった。

「もしもし。ご飯は食べてるの」

「食べてるよ」

「野菜も?」

「食べてる」

「そう。こないだね、坂本さんが白内障の手術をしたのよ。日帰りですって。目って、いまはなんでも日帰りなのね」

芽衣は、テーブルの見積書の上に手を置いた。

「……そうなんだ」

「あなた、声が小さいわね。仕事は忙しいの」

「決算前だから」

「そう。体だけはね」

少し間があった。

「あなたはね、そのままで――」

母は、そこで止めた。

「……ご飯は食べてるの」

「さっき聞いた」

「そうだったわね」

電話が切れた。

芽衣は聞こえなかったことにした。

母は何も知らない。知らないはずだ。

3枚の端を揃えて、重ねた。有効期限まで、あと6日。

備考欄を読み返す

水曜の夜。経理課には芽衣しか残っていない。

取引先の請求書は、まず備考欄から読む。値引きや追加の理由が、そこに書いてあるからだ。

仕事ではそれが癖になっている。

ふと、足元の鞄からはみ出したクリアファイルが目に入った。

芽衣は3枚を机に並べた。そして初めて、備考欄を端から読んだ。

ルミエ美容外科。

「お客様ご希望により追加 目頭の処置 48,000円」

ソレイユクリニック。

「お客様ご希望により追加 涙袋 56,000円」

アトリエ・ノワ美容皮膚科。

「お客様ご希望により追加 眉の下 63,000円」

3枚とも、同じ一行がある。

思い出した。ルミエの相談室で、鏡の前でスタッフに聞かれた。

「ほかに気になるところは、ありますか」

「あの……目頭も、できますか」

ソレイユでは、自分から涙袋に指を当てた。

「ここも、お願いできますか」

ノワでは、西川が言った。

「眉の下も、ご希望でしたね」

「……はい。そこも」

芽衣は「ご希望の箇所」の欄を見た。

ルミエは「二重の幅」。ソレイユは「目の下」。ノワは「目尻」。

毎回、違う場所を言っている。そして最後に、毎回「ここも」と言っている。

電卓を出して、追加の3行を足した。

167,000円。

迷っていた差額は15万円。自分で足した分のほうが、1万7千円大きい。

赤ペンの線は、合計額の下にしかない。備考欄の下には、1本も引いていなかった。

勧誘だと思っていた。誤差だと思っていた。

書き足したのは相手の字で、言ったのは自分の声だった。

金額が決まれば決める。そう言ったのに、金額はもう決まっている。

有効期限の前の夜

金曜の夜。芽衣は台所のテーブルに、3枚を並べた。10回目だ。

サインはできない。断ることもできない。

1枚目なら、目頭が付いてくる。2枚目なら涙袋。3枚目なら眉の下。

どれも自分で足した。どれが本当に欲しかったのか、もう思い出せない。

スマホが震えた。ルミエ美容外科からのメールだった。

件名は「料金改定のお知らせ」。

11月1日より料金表を改定します。モニター割引を含む一部のプランは、10月31日をもって終了します。

1枚目の安いプランが、なくなる。

同意書の署名欄は、空白のままだ。決めなくても、決まることがある。

3枚の見積書は、明日の夜12時でただの紙になる。

芽衣はクリアファイルを閉じた。そのまま、スマホを手に取る。

無料カウンセリングの予約画面を開いた。駅から近い、別のクリニックだ。

来週の土曜、11時。

「ご希望の箇所」の入力欄は、空のままにした。カーソルだけが点滅している。

相見積もりは三社までが普通だと、どこで読んだのだろう。

四社目の予約は、もう取れていた。